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新コミュニケーション演劇教育

普通、コミュケーション教育というと、話し方からふるまい方、ボイストレーニングといったスキルを学ぶといった印象を持たれる方が多いと思います。

愚放塾のコミュケーション教育は、そうではありません。対話の芸術といわれる演劇を中心に据えて、その虚構世界でさまざまな役柄を演じながら、豊かな表現力を身に着け、相手の関係性を築くコミュケーションを養います。

しかし、それだけでありません。

いままでのコミュケーション講座では決して得ることのできないかけがえのない経験ができます。新しい自分、しかも複数の自分と出会うことです。ひいては、それが自己の才能開花へつながるのです。

世の中から対話が消えた

人が集まれば、そこにいない人の陰口やメデァから流れた話題で盛り上がります。人情の常であって、非難しているわけではありません。しかし、これらはおしゃべりの類です。わいわいがやがやしゃべっているだけで、もちろん対話ではありません。会話とも言えません。

みんなが集まるところに出ると、相手の話をじっくり聞く代わりに、その場の空気に神経をとがらせている人も多いと聞きます。決して雰囲気を無視していいわけではないが、どこかおかしい感じがありますよね。

最近はしっとりとした言葉のやり取りをする会話すら少なくなりました。さらに向かい合ってじっくり議論する対話となると、まったくといっていいほど見かけなくなりました。

そもそも対話とは何か?

対話とは、互いの話をよく聞き、互いの理解に努めることのでしょうか?

相互理解という点からいえば、なるほど、対話にふさわしいかもしれません。

しかし、互に理解し合うこと、それだけでは、いい会話と呼べても、どこまでいっても対話とはなり得ないのではないでしょうか?

それでは、会話であっても対話にならないその理由はなんでしょうか?

対話が成立するためには、「場所」が問題である

たとえば、 二人が未知の場所で出会い、言葉を交わすとしたらどうでしょう。この場合、この二人が知り合いか初対面かどうかは問題ではありません。それより、この二人がこの場所についての情報を何一つ持ってないことが重要なのです。

どういうことでしょうか?

上述の未知の場所で、言葉を交わすという状況において、二人の間で何が話されるのかを考えてみてもらいたいのです。

互いの「無知」が対話を可能にする

二人ともこの場所に不案内であるがゆえに、おそらくこの道はどこに通じているとか、どこから来たのか、この辺りに何があるかとか、互いに知っている情報を交換するでしょう。そして、彼らは情報を共有し協力して、それぞれが目的地に行くためにはどう進めばいいのかを話し合うのではないでしょうか?

この場所においてこそ、つまり、どちらもが無知であるこの場所において、二人は否応なく互いを必要とし合い、互いの納得のいく方向を模索し合うはずです。ここに対話はあります。

つまり、対話が成立するためには、無知の自覚が必要です。その無知が相手を必要し、互いの情報を共有するのです。そして、その互いの情報を手掛かりに、自ずから議論が生じるのです。

未知なる場所で新たな知と出会うこと

コミュニケーションというと情報の相互伝達という意味で理解されていることが多い。しかし、コミュニケーションの語源は、ラテン語の「Communus(コミュナス)」だそうです。「分かち合う」という意味です。

ところで、分かち合うだけでは、対話とは言えません。会話でも話題を分かち合っています。対話とは、話題を分かち合う前に「無知」を分かち合うことなのです。

したがって、純粋に対話が成立するためには自ら進んで未知の場所に赴き、そこでその場所に通じていない人に出会うことです。その「無知」から共有する話題が立ち上がり、議論が練れられ、新たな知と出会うのです。

演劇を通じて対話の稽古

とはいえ、未知の場所とは比喩にすぎません。互いに無知の自覚さえお互いが持ちあわせれいれば対話は成立しますが、現実は難しいのではないでしょうか?どうしても知識のある方が主導権を握り、純粋に対話になることは少ないようです。

とすれば、演劇において純粋な対話の可能がみえてきます。演劇という装置を使えば、場所の問題として考えることができるからです。

では、場所とはどこなのでしょうか?…舞台?いや、そうではありません。そうではなく、舞台という非日常的な空間を通してあらわれる虚構の場所なのです。

新コミュニケーション力とは何か?

愚放塾のコミュニケーション教育は、舞台空間のおいて現れる「未知の場所」でおこなわれます。そこでは誰もが無知であることが求められます。解決できない未知の問題を分かち合い、対話し、新たな知を探し求めます。

演劇を通してさまざま対話の仕方を学びますが、それだけではありません。

演技によって自分から離れて自由に、自らの困った問題を分かち合い、真剣に互いの問題を考えます。それぞれの体験をシェアーし、その情報を共有しながら対話をするのです。

情報に振り回されるのではなく、情報をコミュニケートするのです。自らの体験から出発して自分とつながり、さらに他人とつながる「つなぎなおし」が起こり、さまざまなコミュニケーション力が身につくのです。

対話して解決を図るコミュニケーション力、互いの発想を活かし合うコミュニケーション力、自分の言葉で緊張せずにいえるコミュニケーション力、感情を素直に伝えるコミュニケーション力等が養われるのです。

自分のなかのもう一つの「知」に出会う

演劇を通じてさらに大事なことを経験します。それは、ひとつだと思っていた自分が解体し、多面体の自分が姿を認識する経験です。

演技をしているつもりでも、それは自分の経験に裏打ちされた感情や思考によって、演技が成り立っているからです。演技といえども、自分には違いないのです。しかも、演技によって日常とは違った自分が顔を出すのです。

つまり、演じながらも、舞台上の他の演技者と真剣に対話していくうちに、いままで表に出てこなかった人格が前面に立ちあがってくるのです。

演技というふるまいを通して、いままで陰に隠れていた人格にも身分が与えられ、その人格が相方との対話の中で成長し、新たな自分という、ちがった意味での「知」を開いてくれるのです。

愚放塾の新コミュニケーション演劇教育

演劇という装置を使って、未知なる場所を想定して、さまざまな役を演じる、その行為によって未知なる経験をすること、それが愚放塾の演劇教育の枢要なのです。

未知の環境に身を置くことによって、いままでの思考様式や行動様式が通用しなくなります。他の人たちといっしょに支え合いながら、自分を総動員して新たな道を模索し、人や物事との「つなぎなおし」が起こます。

その過程で、新たな自分、しかも複数の自分と出会い、その自分を受け入れることで、他人との関係もバラエティーに富み、自由にふるまえるようになるのです。もちろん、自分との関係も良くなります。創造的な自分に生まれ変わることでしょう!
 

参考記事:
→大学休学生、大学不登校生のための「演劇コミュニケーション教育」
→教師のための「演劇教育コミュニケーション・メソッド」
→コミュケーションの成り立ちからひも解く「『コミュケーション』の力!」
→自分のなかで持て余している自分を活かす「『プリコラージュ』演劇教育法」

大学休学生、不登校生、ニート、ひきこもり、離職等生き方に迷っている諸君へ!

一度の人生、できればいろんな自分を生きたいと思いませんか?

「本当の自分とは何か」とか「ありのままの自分」とかアイデンティテーの問いが、ひと頃、いや、いまでも、個性の問題と絡んで取り沙汰されています。

しかし、所詮、ひとつの殻に閉じこもっている自分を問題にしているにすぎないのです。

そうではありません。

よきにしろ、あしきにしろ、自分とは一人ではありません。

世間の価値観にとらわれて凝り固まっている自分を解き放って、複数の自分を自由に羽ばたかせることが人生を豊かにするのです。そればかりか、あなた本来の才能開花をもたらすのです。

生き方のヒント
index:
1.新コミュニケーション演劇教育
2.知識の汚れを落とし、納得のいく人生を手に入れよう
3.僕の人生のターニングポイントは「演劇と出会った幸運」でした
4.「演劇の力」は何か!
5.人生の問題は「演劇」で解決できる!

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