不登校問題は、エンパシーの技法を用いて考えてみよう
2016/12/4 塾長ブログ
 
シンパシーとエンパシーの違い
 
シンパシーとエンパシーは、ともに「共感」と訳されることがある。もちろん、シンパシーとエンパシーは同義語ではない。この2語に共通のpathyは感情の意味だが、接頭語のsymとemとには明確な違いがある。

symは、「共に」の意味だが、emは「~する」の意味で、後に続く語(この場合はpathy)を動詞化する。したがって、シンパシーは「共感」の意味でいいのだが、エンパシーは、直訳すると、能動的に感情をつくることの意味になる。つまり、相手の状況に入り込んでその感情を呼び起こすことなのである。
 
シンパシーには正解があるが、エンパシーには正解はない
 
換言すると、相手のことがわかるという前提で考えるのがシンパシー、相手のことがわからないという前提で考えるのがエンパシーとも言えるのだ。

たとえば、国語の授業で「この時、主人公はどんな気持ちだったでしょうか?」と質問するが、それはシンパシーを問うていることになる。小説の文脈から主人公の気持ちが分かるという前提で、その時の感情を分かち合いましょうというのである。つまり、正解があるものとして質問している。それが授業で小説を読むということでもある。

しかし、エンパシーには、正解がない。エンパシーを尋ねたら、授業にならない。「主人公と同じ立場に置かれたら、あなたはどんな気持ちになりますか?」では、すべて正解になってしまう。逆から言えば、主人公の気持ちは主人公しか分からないというのがエンパシーであり、これでは授業にならないのは当然である。しかし、思考の正しい手続きを踏めば、主人公の気持ちを推察することは可能である。
 
エンパシーの技法とは何か?
 
小林秀雄は、批評とはその人の立場に身を置き、その身になって考えることだと言っている。高みにいてああだ、こうだということはいくらもできるが、その人の身になってみると、たしかに意外に何も言えなくなるものだ。だが、批評とは、そこまで行って、なんとか言葉を見つけること。小林秀雄はそういう姿勢で日本の近代批評のジャンルを開拓したのである。

したがって、エンパシーとは、批評的な思考態度と言ってよい。シンパシーは情に流されやすく、思考の入る余地はがないのに対して、エンパシーには批評的な思考のプロセスがある。このことを僕はエンパシーの技法と呼ぶ。エンパシーの技法は次の手続きを踏んで進められる。

相手の外面的な状況を思いめぐらす→相手の外面的な状況に自分を置く→相手の性格等の内面を観察して自分との違いを比較検討してみる→内面的な違いを踏まえたうえで相手の気持ちを想像してみる。

上述の、そうしたプロセスを経てはじめて共感が起こるのだ。あえて批評的と言ったのは、エンパシーのプロセスが視点=目の付け所と視座=自分の置かれた立場の変更をもたらすからである。
 
不登校生は見ず知らずの他者に等しい
 
たいていの大人は自分が子供だったことを忘れてしまって、大人の視点から子供たちに意見する。たとえ子供の視点に立ったとしても、自分の子供のころはそうではなかったという。大人はいつの世でも、そういうふうに、「いま」の子供たちを見てしまうものである。

よく考えてほしい。時代も違えば、生まれも育ちも違い、そして決定的なのは、大人はどうあがいても子供にはなれないということである。我が子であっても、それは見ず知らずの他者と同様に接しなければならないのだ。

わけても人生の早い段階で大きな問題を抱えてしまった不登校の子供たちなら、なおさらである。それぞれの子供の心の底には、それぞれの難題が横たわっており、言語経験の浅いがゆえに、その思い言葉で表現することができないでいる。

だからこそ、そういった子供に接するときには、自分はさておき相手はどうかわからないところから出発して、相手は立場に身を置き、相手の身になって考えるエンパシーの技法が有効なのだといえるのではないか。
 
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