ある不登校生の不可解な言葉の意味を探る
2016/12/9 塾長ブログ
 
まだ高校の教師をしていた頃のことである
 
授業は休んでも演劇部の部活だけは出てくる「不登校生」がいた。その彼がなんとも不可解な心情を吐露したことがあった。「小学校から不登校になって親にいっぱい迷惑をかけた。もう償おうとしても償いきれない。だから、親に悪態をつく」と。

その時は言葉が出なかったが、しばらくたった頃、ドストエフスキーの小説を読んでいて、はっとしたことがあった。彼と同じようなことを作中人物が語っているのだ。作品名は忘れたが、たしかこんなことが書いてあった。「大変お世話になった恩人に俺は今も迷惑をかけっぱなしだ。だから、俺はあいつを憎んでいるんだ」…僕は小説を読みながら、不登校の彼の言葉の思い出したのである。
 
ドストエフスキーの小説の読解方法から不登校生の心理を読む
 
ドストエフスキーの小説に出てくる「困った人たち」の心理は複雑でありながらも、その人物の性格や置かれた状況を分析し、その状況に自分を置いてみてその身になって思いを巡らすと、不思議にその気持ちを理解することができる。ドフエフスキーの小説の魅力はそこにある。

普通の小説は文脈から作中人物の心情を読み取る。しかし、ドフトエスキーの小説はそうではない。いやがうえにも、その作中人物になりかわって考えることを要求してくる。もちろん感情移入とは違う。読者は、作中人物の不可解な言動に躓いてはページをめくりなおし、何度も読み返しているうちに、いつのまにかその人物の身になって考えているのだ。たしかに手のかかる小説だが、その作業がドスト・ファンにはたまらないのである。

当時、ドストエフスキーの小説を好んで読んでいた僕は、その読み方と同じ方法で不登校生の言葉を読み解いてみたのである。僕はその読解方法を「エンパシーの技法」と呼ぶ。
 
不登校生の言葉の読解は、はたして正解か?
 
繊細な彼は不登校で両親に多大な迷惑をかけたと責任を感じている。両親が自分のために大変辛い思いしたのではないか、自分の楽しみも犠牲にして僕のために悩み抜いたのではないか、カウンセラーや心療内科でたくさんのお金も使った、気苦労が絶えなかったにちがいない、そして、いまも僕は授業には出られない、ほんとうに済まない、そう思っても、もう取り返しがつかない。僕は両親にとって厄介者であり、ほかの優秀な兄弟たちとちがって嫌われ者、だからこそ、悪態でもつかない限り、見放されてしまう。

なるほど、ドストエフスキーに出てくる「困った人たち」と同じだ。相手に嫌われていることが分かっているにもかかわらず、そして、相手に嫌われたくないがゆえに、ますます相手にひどいことを言う。この複雑な心理こそ不登校生の気持ちにそのまま合う。

親の愛を得たい。しかし、親は僕のことなどもう愛想尽かしているに決まっている。だから、素直になれない。嫌われることよりこたえるのは、親から見放されること。親に嫌われることを担保にして、親の注意を引くために親をもっと困らせる。あえて憎まれ口をたたくのだ。そうするしか、親の愛を確保する方法が見つからないのである。
 
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