肯定的な否定が「全否定」にすり替わる、ある大学休学生の心理
2016/12/31 塾長ブログ
 
評価という呪縛にもがいている
 
一概に最近の若者と括ってしまってよいものか、それは分からない。僕がこれまでに接した若者たち、彼らは「全否定」という言葉をいともたやすく口にする。こちらとしては人格を否定したわけでもなく、まして言ったことを「全否定」するつもりがまったくない場合でも、そう言う。「全否定」という言葉が従来の用法の枠を外れて彼らの心をがんじがらめにしているのである。

たとえば、大学休学生のある塾生とプログラムの進行具合の「総括」をした時のことである。愚放塾の教育プログラムは到達目標を細分化して段階ごとのテーマを設けてあり、項目別に自己評価していくのだが、彼の評価を聞いて僕もコメントしていく。ある項目の評価の時だった。

彼が言った言葉に対して僕も頷いて「そうだね、以前は面倒臭がって先延ばしていたことも最近はそれがなくなったよね」と言うと、彼の表情がにわかに陰った。そして黙りこくってしまった。「どうしたの?」と尋ねても、口を閉ざしたまま何も言わない。しばらくして彼はこう切り出した。

「以前の自分のことを言われると、全否定された気持ちになって落ち込むんです…だから、以前の僕ではなく、今の僕だけのことを言ってくれませんか?」と言うと、彼はそれきり何も言いない。僕も黙って何も言わない。二人の間の空気が張りつめて息苦しさを覚えたからである。

評価するには比べなければならない。愚放塾の教育は、前と今とを比べて、そのよくなったところを肯定評価する。前はこうだったのに今はこうよくなった、つまりafterを肯定評価するためにはbeforeをはっきりさせなければならない。

しかし、彼はそのbeforeを「全否定」と捉える。「前の悪かったところを言われるのは全否定されたことになるから、やめてくれ」と言うのだ。彼にとっては悪い自分を指摘されるのは、今であろうと前であろうと、たとえ今の自分を褒められとしても、自分自身がすべて否定されたことになるらしい。
 
この傷つきやすさはどこからくるのか?
 
自分が変わったことに自信が持てなく、今の自分を肯定できない。なるほど、彼らの自我が弱いにはちがいないだろう。ガラス細工のように脆い。そして、以前よりよくなった自分を信じられないほど自己不信に陥っている。しかし、そのような言葉では到底片づけられない、評価に対する「不信感」があるように思える。

評価と言えば、学校がすぐに思い浮かぶ。そして、テストの点数イコール評価と捉えがちだが、わけても義務教育を行う小中学校は、そう単純ではない。テストの点数が比重を占めることは言うまでもないが、それだけではない。テストなどできなくても、評価の高い生徒はいくらでもいる。それが「クラス」というものである。

クラス内での濃密な人間関係が、常に自分と他人を見比べることを強いる。そうでありながら、自分の評価は自分では決定できない。あいつより自分のほうがすぐれていると思っても、先生の不用意な一言でその思いは、いとも簡単に揺らぐ。

まして、いまは先生の権威が失墜している。いわば中心が不在である。したがって、生徒間でいつのまにか自分の評価が定まってしまう。「クラス」においては、もはや先生ではなく、仲間内の評価が一番であり、「スクールカースト」といった歪な序列が生まれたりもするのである。

休学生や不登校生と接して痛切に感じることは、「人目など気にしないで自由に生きようぜ」と気軽に言えない息苦しさがある。彼ら彼女らは、その「クラス」のなかでの生まれる評価の一番の被害者だからである。

得体のしれない仲間の視線に悩まされ、評価というものに対していつもたとえようない怯えを持っている。すなわち仲間外れにされるという恐怖が、今の自分であろうと、前の自分であろうと否定されることは全てを否定されたことになるのではないか。

大学生休学生の彼にしても、人生の早い段階で作られてしまった、そういった心性から逃れらずに、否定されることに並々ならぬ恐怖を覚えているのではなかろうか。
 
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