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休学、不登校生等、悩み多き若者への接し方~「母なるもの」を通して~
2017/7/21 塾長ブログ
 
「母なるもの」こそ、すべての原点である
 
かつて母源病という言葉があった。精神的な問題の多くは、母親の子供への接し方に原因があるというものだが、なるほど人生において母親ほど、よかれあしかれ、多大な影響を与えるものはない。

羊水に包まれて一年ほど経つと外へ出る。そして乳飲みがはじまる。今度は体外での母との密着期間が続く。耳元でささやかれる母の声は、言葉以前の言葉として皮膚接触と同じように感覚的である。

この濃厚な接触の夥しい感覚は決して思い出せないものの、身体の底板に刻まれ、生涯にわたって影響を及ぼす。この「母なるもの」は絶対的である。しかし、僕の場合は、記憶に残る「母なるもの」として、いまもなお差し迫った感覚として生きている。
 
母、その存在は、僕にとって深い悲しみを越えて粛敬の念がある
 
母に対する思いは尽きないが、思い出すのはあまりに切ない。しかし、燠のようにいつまでも消えずに、その熱だけがいつも心を火照らせている。僕の人生を力強く導いてくれる最愛の力である。

もう34年前。僕が26歳の晩秋に亡くなった。癌だった。当時は癌の告知は行われていなかった。病名を隠すのが普通だった。医者から余命宣告を受けると、僕はなかなか病院に行くことができなかった。

病気が治ることを信じて懸命に生きている母の顔をまともに見ることなどできない。病室のドアの前に立つと張り裂けるほど心臓が高鳴る。僕は母に会うことなく病院を後にしたこともある。

それでも、意を決して病室に入ると母はいつもにこやかに「仕事が大変ずら、無理に来んでもいいど。大丈夫だから」と言うと、見舞い客が持ってきてくれた果物など差し出して仕事の様子などを嬉しそうに聞く。その笑顔に救われて、辛うじて涙を見せないで済んだ。
 
騙されていたのは家族のほうだった、それも完璧に、である
 
母は11月の寒い明け方死んだ。葬儀も終わり、涙も枯れ果て呆然していた僕が目にしたのは、父から差し出された母の闘病記だった。読み進めていく暇もなく、僕の視点は固まった。涙があふれて止まらない。突っ伏して声をあげて泣いた。

そこに記されていたのは、あまりにも早い「遺書」だった。亡くなる5か月も前のことである。母は尋常でない体の異変にすでに死期を察していたのだ。感謝の言葉、楽しかった思い出、そして亡き後の祈りが抑えた文体でしたためてあった。

母はすでに手遅れの癌であることを知り、そのうえで家族の悲しみを先取りするかのようにその心を見透かしていた。必死で母にさとられまいとする心中を慮って、母は騙された演技を見事にし通した。家族が母を思う心をはるかに超えて、気丈で大きな愛だった。
 
「母なるもの」が僕を導いてくれる
 
いまだに僕は夢を見る。薄暗い病室で母がベットに横たわっている。僕は程近くで母の寝息を聞いている。まもなく死を迎える母の顔をまじまじ見ながら、僕は夢の中で母に誓う。親孝行できなかったが、「母」をそのままに生きると。

子供のいない僕が言うのもなんだが、親子というのはなかなか難しい。教育の仕事を長くしていると、世の親の苦労が痛いほど分かる。子供のことを考え、できるだけ客観的にと思いながらも、時に甘すぎ、ある時は厳しすぎたりもする。

また親の欲目も簡単には拭い取れない。我が子は、どうしても贔屓目に見てしまうのが人情である。ところが、期待外れの現実を目の当たりにすると、いきおい落胆、そればかりか、不機嫌になったり、落ち込んだりする。

血の繋がりという厄介な関係がないことを幸いに僕は、母への粛敬ともいえる切ない感覚を常に胸に抱いている。何事も塾生の心の中に入り込んでそこから始めるように努めている。その「母なるもの」の感覚が僕の愛を開かせ、僕をいつも導いてくれる。
 
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