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大学休学、不登校生をはじめ、「自分」を見失った若者たちのために~自己発見に役立つ「ハンド・ライティング」~
2017/10/22 塾長ブログ
 
3分間で、考えずにすばやく、できるだけたくさん書く
 
ほとんど何も考えずに書く。ただ単語を連ねたもの、文章にならないようなものもオッケー。書いたものはみんなでシェアし合い、感想や意見を述べ合う。互いに読み合いながら、「ああだ、こうだ」と感想を述べ話し合うのだ。書き終わったものを読んで、(自分で書いていながら)こんなことを書いたのかと驚き、人から言われてこんなことを思っていたのかと自身に問いかける、新鮮である。人が何気なく指摘したことが、ふと心に刺さったり思い当たる節に出会ったりする。
 
瞬時によぎった言葉をそのままに書き出していくことは意外に難しい
 
というのは、心の内をさらけ出しやしないかという恐れが生じてしまうからだ。愚放塾の塾生やワークショップに参加した人たちで、あるがままの言葉を素直に書くことに抵抗感を持つ人は意外に多い。この「ライティング」が楽しめるようになるまで結構時間のかかる人もいる。もっともメンバーの信頼関係が十分に築かれるまでは、それが当たり前と言えば当たり前といえる。
 
最近、ある塾生がこんなことを口にした
 
「いままではどこかに構えがあって本音が出てしまうのが怖いようなところがありました。今日はどうにでもなれという気持ちで、まっさらな頭で、書いてみました。こんなものが出来上がりましたが、どうでしょう」と。さぞ赤裸々な内容が書かれているのかと思うだろうか。しかし、その書かれた中味はまさに「ナンセンス」。とりとめがなく、つながりのない言葉の羅列。心のタガが外れて「あるがまま」に書いたものは、得てしてこんなものだ。必ずしも内面から深いものが出てくるわけではない。
 
「ライティング」の意義はそこにある
 
ただ思いつくままに出てくる言葉をそのまま羅列する、その肩肘の力が抜けた姿勢こそ自己解放の一歩だ。人目から解放され、感情や思考のこだわりが溶けて、素直に自分と向き合う その結果が如実に文章にあらわれる。むろん意味不明の言葉の羅列ばかりでない。秀逸な発想や突飛な表現に出会う。たとえば、前出の塾生の場合だと、「冷蔵庫で百円玉が光っている」「さまよえるまつ毛の上のかすかな雪」。こんな素敵な詩的言語が、自由奔放な言葉群から浮かび上がってくるのだ。聞くものの耳を驚かせる。
 
ナンセンスな言葉の配列は解放された思考の営みの結果である
 
「学びとは、はじめから自分の手元にあるものをつかみとることである」というハイデガーの言葉を借りるまでもなく、予断や先入観を取っ払っていきなり、ただ思いつくままを書くこと、それだけことで意識せずとも創造力を養っている。「ライティング」に慣れてくると、囚われのない自由闊達な言葉が次々と繰り出され、ますます自己解放の度を深めていく。書き出された文章をみんなで面白がって解釈し合ってその「議論」のなかから、目をそらしていた現実やごまかして正当化をしている事実等、真実の気づきに出会ったりする。無意識の一端を垣間見たりもする。精神分析療法のように抑圧解放の契機ともなっているのである。
 
「ライティング」の一例
 
「グルグル回る回る、巡る巡る、前進か後退か、進めば森を抜け出てよいかもしれないが、森をもう少し見ていたいという思いもある。進んで出たらただの道、見覚えのあるアスファルトがあるだけだ。森の葉っぱを、花を、風を、木々の香りをもうすこし嗅いでいてよいであろう。見方、角度、腹ばいになって土のにおいをかいで見上げて風景を見て、漂うあわつぶが頭のなかに一瞬ひらめいて消えるのは何なのか。もう一度よく考え、四股を踏みなおし、どよめくなかで目を凝らして雨ふりのなかで月をさがして、深呼吸、そして見つめてみよう」10月11日
 
→参考記事:「大学休学、不登校生におすすめ!心の対話に『ハンドライティング』」
 
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