「自己変容」とは、自己イメージを変えることにほかならない
2015/3/22 塾長ブログより
 
自己イメージとは何か?
 

「自己イメージ」とひと言で言っても、実は重層的で入り組んでいる。簡単ではない。一概に決められるものではない。

友達といるときはおしゃべりだが、家族といるときは無口。同僚の間柄では気長で通っている人が、上司の前だと短気になる。同性同士ではおどけ者が、異性と接するときは澄まし屋になる…

性格はタイプ論に分別して語られることが多いが、自己イメージとなると、相手との関係性によって、あるいは人間関係の状況によって、その場面々々で、ふるまい方が変わり、結果、いくつもの自分が存在することになる。

自他関係の結節点として無意識のうちに像が結ばれる、端的に言えば、それが自己イメージなのではないだろうか。
 
多面的な自己イメージを、世間は一つと捉える
 
たとえば、普段もの怖じしないで威張っている男が、公衆の矢面に立たされ、おどおどしてろくに言い返しもできない姿を見たら、大抵の人は「あいつ、いつも威張り腐っているくせに根は小心者なんだ!」と見下すだろう。「もの怖じしないで威張っているのは見せ掛けで、本当は小心者なのだ!男の正体見たり」と誰もが思うだろう。

以来、周りの男に対する態度は激変するだろう。小心者というレッテルを貼られ、男はそういった自己イメージを押し着せられることになるにちがいない。

仲間内では肝が据わって少々のことではもの怖じしない男も、人前であがってしまってろくすっぽ応答できない男も、いずれも男の事実の姿であり、男にとっては自己イメージのひとつの形にすぎない。なのに、ひとはそうは見てくれない。「一見そう見えるが実は~だ」的なものの見方をするのが世間というものである。
 
悲劇はその世間の見方から始まる
 
あがり症という弱点を自覚している男は、「自己イメージ」を崩さないために普段から細心の注意を払って涙ぐましい努力をしていた。にもかからず、その周到に張り巡らしていた用心の虚を突かれ、ふいに公衆の面前で矢面に立つことになってしまった。そして大恥をかいて、以後小心者という情けない人物イメージを仲間たちから授かった。

しかし、それはうわべの悲劇にすぎない。悲劇の内実はそこにはないのである。

そもそもの悲劇は、思い込みの自己イメージを死守しようとした男の行動にあった。ひとつの自己イメージを死守しなければならない必要はどこにもないのである。

自己イメージは多様に存在し、この例に即するならば、どちらの自己イメージも自分であると考えていたら、そのような悲劇は起こらなかったのではないだろうか?

「俺は上がり症だからね、舞台に立つとがたがた震えるんだ」と普段から、周知させておけば別になんのことはなかったのである。
 
自己イメージは、他人との協働作業で作られ、複数存在する
 
もとより、自己イメージは自分で都合よく作るようなものではなく、複数の自他関係のなかから多面的に醸成されてくるものである。男がその性質を正しく理解していたならば、そのように自然醸成したいくつもの自己イメージを受け取って、まずは自分を知ることが必要だったのである。

自分とは固定された一つの自己イメージを持った存在ではない。

よく考えてみよう。自分の心に刻まれたマイナスの自己イメージ、たとえば、数学が苦手、弱音を吐く、才能がない、すべてに自信が持てない等々はどうやって作られてきたのだろうか?

いま数え上げたマイナスの自己イメージだけでも、複数存在し、けっして自分で拵えたものではないことが分かるだろう。

つまり、自己イメージは他人との協働作業によってつくられ、その自他関係の結び目から立ち上がってくる多面的な存在。、この性質を正しく理解していたならば、男のふるまい方は全く違っていたはずである。
 
自己イメージ(=エッジ)の由来を探る
 
したがって、自分でいくら思い通りの自分をイメージして、その通りにふるまおうとしても、所詮、無理がある。まして、他人がそう見てくれない限り、その自己イメージは成立しないのだ。

変わりたいといくら自分で願っても、他人が承認してくれないかぎり変われないのである。他人の冷たい視線によって、その願望は実現することなく、あっけなく闇に葬られてしまう。

自分を限界を乗り越えられない人も多い。自分を限界づける見えない輪郭を「エッジ」と言うが、その由来をたどっていけば、失敗を責められたり、笑われて傷つけらたり、また教師や親からダメだと烙印を押されたことがキッカケであり、ほんの些細なつまずきであっても、取り巻く人々が寛容でないゆえ、いつのまにかマイナスの自己イメージができあがって、「エッジ」として自己を限定してしまっているのではないだろうか。

一旦できあがってしまった自己イメージは潜在意識に刻印され、その条件さえ満たされれば、いつでもどこでも自分の意思とは関係なく発動してしまう。だからこそ、成長過程での人的環境はとくに重要である。

マイナスの自己イメージに捉われて、そこから抜け出せない人は、過去にそのような貧しい人的土壌がなかったか、検証してみてほしい。
 
[自己変容」は、良質な人間関係によって可能になる
 
潜在意識に刻印されたマイナスの自己イメージを払しょくして、新たな自己イメージを作り上げる。いや、新たな自己イメージをつくるまでもない。マイナスだと思い込まされた自己イメージの一つだけでもプラスに転じることさえできれば、それだけのことで自分は変わる。すでに「自己変容」は起こっているのである。

とはいえ、言葉で言うのは容易い。実際はなかなかうまくいかないの事実である。ならば、どうすればいいか?

答えは意外なところにあった。自分と悪戦苦闘して変われなかったのが、嘘のように簡単に変われる。まさにコロンブスの卵だ。つまり、自分を取り巻く人たちを選ぶのである。互いに弱みを見せ合える、そして、一つの自己イメージを押し付けない仲間と付き合うのである。

善きにつけ、悪しきにつけ、人間は朱に交われば朱くなる。質の良い人間関係の中にいるだけで、自己イメージは変えられる。マイナスの自己イメージをプラスに変えられる。今からでも決して遅くない。自分を変えることは可能である。
 
愚放塾の自己変容教育
 
愚放塾の「自己変容」演劇ワークショップでは、参加者同士の信頼関係を築くことに全力が注がれる。それがワークショップの成否を左右するといっても過言ではない。互いに認め支え合える関係ができない限り、「自己変容」演劇ワークショップの効果は見込めないからである。

自己変容の究極は、仲間とともに理想の自己イメージを作り上げることなのである。

愚放塾は、各自が自己変容するために、理想の自己イメージを育てる協働作業所である。理想の自己イメージを持つことができたならば、自己開花が可能となる。その自己イメージに従っておのずから自己は成長し花開く。

ただし、理想の自己イメージはたったひとつではない。プラスの自己イメージをできるだけたくさん持つことである。」

愚放塾では、互いに認め支え合う「支援力」を土台にして、「演劇力」と「農業力」で種々諸々の関係を刷新する「つなぎなおし」の教育しているが、その根本は、マイナスをプラスに「つなぎなおす」こと、新たな自分とつながること、そのプロセスで自己の変容が可能になり、結果として思い思いの自己が開花する、それが愚放塾の教育方法論である。
 
参考記事:
「愚放塾の演劇教育」
「復学・復帰を目指す大学休学生・大学不登校生のための「自己イメージ学」講座」
「復学・復帰を目指す大学休学生・大学不登校生に贈る「続自己イメージ学」講座」
「演劇教育の基本は自己イメージの衣を脱がせること」
「『自己変容』の状態を探る(画家と俳優と兵士との類似性)」
「失われた現在が自己変容を可能にする」
「自己プレゼン演技術その1」
「デヴィッド・ルヴォーの思い出(1)」
塾長インタビュー「人前で演じるなんてとてもできない性格でも大丈夫ですか?」(Q5)
 
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