ホーム >塾長ブログ >【小豆島愚放塾】塾生募集 >自然農法の考え方は、不登校の生徒に接する仕方において目から鱗である

 

自然農法の考え方は、不登校の生徒に接する仕方において目から鱗である。
2015/1/22 塾長ブログより

 
自然農法の知恵
 

いま、自然農法をするにあたっての畝づくりをしている。しかし、この畝づくり、土にとってはかなりダメージを与えるのだ。

「自然農」の生みの親、川口由一さんは本の中で次のように述べている。

自然界の大地では、たくさんの動植物や微生物たちが暮らし、次世代へ生命のバトンを渡すことを繰り返している。そこには必ず枯れ葉や朽ち木、小動物の排泄物、生命を終えた動植物の亡骸の層があり、土がむき出しになっていることはない。自然農では、そのような自然界の亡骸が糧となり、作物たちは健康に育つ。一方、耕すことによって、そこに生きている多くの生物は殺され、生きる舞台である亡骸の層も破壊されて失われてしまう。耕されてむき出しにされた土は、太陽にさらされて半砂漠化し、土壌流出を起こし、時が経過するにつれてカチカチに固まり、また耕さなければならないという悪循環に陥ってしまう。耕さない畑は、『豊穣の世界』。耕した畑は、『不毛の世界』。それほどの差がある。


この文章を読んで、「いかにもなるほど!」と思わずにいられない。「いのち」というものの根本を教えられた、まったくもって目からうろこが落ちた思いである。
 
たしかにそうである!
 
そういえば、僕自身、そのことは身をもって体験している。数年前、臓器の一部除去する2時間余りの手術を受けた。そのわずか2時間余りの手術で体力のすべて失われたように、ベットから起き上がるのもやっとの状態になってしまった。

僕の場合、重篤な病でかなり体力も落ちていた。そのうえ、消化器の一部を切除したで、術後に食事は取れずに点滴で栄養補給していた。しかし、それにもまして、腹を開いて内臓を空気に曝し、その一部を除去することは、耕されてむき出しにされた土と一緒で、僕の肉体はかなりのダメージを受けた。一時的には蝕む病魔以上にダメージを受けたことになる。

体力が元通りになるには、自分の体がもつ自然治癒力によってでしかない。薬やサプリメントに頼れば、逆に体力は元に戻らない。時間がかかっても自力で傷を癒し体力を取り戻すしかないのである。
 
命の営みを学ぶ
 
川口さんはこう続ける。

…自然に任せておけば、土はやがて豊かになる。…人間が何かを持ち込むとバランスは崩れる。化成肥料や有機肥料、農薬を持ち込まないのはもちろん酵素や微生物資材なども、一切使わない。

愚放塾では農業(自然農法)を教育の一環として行う。決して収穫が第一義的な目的ではない。したがって、農業から「いのち」の営みを学ぶことがその本義である。

たとえば、不登校になってしまった生徒、彼ら彼女らは意識上は決してなりたくて不登校になったのではないのだろう。しかし、無意識のどこかでは、学校を離れて傷ついた心を癒したいというのが彼ら彼女らの真実だろう。そう解釈するのが自然である。

私たち支援者は、彼ら彼女らのなかに真実、すなわち「いのち」の自然を、確と見て取らなければならない。いささか大げさな言い回しになるが、「いのち」がなんらかの「ダメージ」を受けたから、学校に行けなくなったのである。
 
不登校を「離校」と呼ぶ
 
僕らは彼ら彼女らの行為を不登校と否定形で呼ばない。そうではなく、彼ら彼女らの「いのち」がみずから選んだ行為であると考える。
したがって、愚放塾では不登校を「離校」と呼びかえる。

「このままだとダメになる」と判断した彼ら彼女らの「いのち」が講じた積極策である。学校を離れるのは「いのち」が生き延びるための積極的逃避である。自然治癒力によって心が元通りに回復するまで、心の滋養を摂る道を、彼ら彼女らの「いのち」が選んだのである。

とすれば、彼ら彼女らの「いのち」の自然に任せておくしかないのである。自己治癒力によって傷ついた心が豊かなバランスを取り戻すまでそっとしてあげるのが一番手っ取り早い処方箋である。
 
サポートするタイミング
 
そして、自然農法の考えた方からすれば、畝づくりで草除りをしてダメージを受けた土に枯草で覆い土が元通りのバランスや体力を取り戻した時を見計らって種まきをする。僕たちができることと言ったら、新たな農作物の種を撒き、それらが、他の「いのち」に混じって、すくすく育つ手助けをしてあげること。

不登校生徒に対するアクションも自然農法と同じ考え方が当てはまるのではないかと思う。彼ら彼女らの心が回復した時を見計らって、新たな種を撒いてあげるのである。周りの大人がしてあげられるのはこのタイミングをおいてほかにない。
 
何を撒くか?
 

それは重要である。このタイミングでしっかり彼ら彼女らと向き合うことである。個々の適性に合った、将来において大きく実るようなものを、彼ら彼女らと一緒に考えればいい。

ひとりひとり違った「好き」がある。一番育ちやすい種を一緒に見つけること、その協働作業こそが、「離校」することを選んだ「いのち」に誠実な応答ではないだろうか。
 
参考記事:
→人生において絶望は大切です!「休学生、不登校生よ、絶望も輝くのだ!」
→新しい種は新しい農地に撒くことも大切ではないでしょうか。「環境を変えてみよう」
→身体を置き去りにしていませんか?「身体性を取り戻そう」
→信頼して待ってあげること「不登校生へ贈る言葉」
→荒くれ生徒たちと不登校生の共通点とは?「期待しないで見守ること、その信頼がバネになる」
→本人の歩み方を応援する「大学不登校、休学生の復帰・復学への道筋を考える」
→大丈夫、相手の立場になるだけでいい「使命は、向こうからやってくる」
 
ホーム >塾長ブログ >【小豆島愚放塾】塾生募集 >自然農法の考え方は、不登校の生徒に接する仕方において目から鱗である