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愚放塾の演劇教育
2015/2/13 塾長ブログより
 
劇場のルールとは何か?
 
演じることの妙味は、虚偽の台詞を真実の言葉として発することである。そのために俳優は、たとえ1回きりの公演であっても、何カ月も稽古をする。俳優のこうした努力があるからこそ、観客は舞台上で起こる出来事の嘘を承知で安心して観ることできる。

もっとも戯曲がつまらないうえに役者が下手だと思わず野次でも飛ばしたくなるが・・・そう言わないまでも、少なくとも劇空間に入り込めない。とはいえ、舞台自体は少々のことでは沈まない。劇は観客の辛辣な言葉に撃沈しても、舞台は不沈艦である。

下手でつまらない芝居にであっても、舞台は泰然として揺るがない。舞台とは、観客に、いやがうえにも、俳優の挙措を役柄の身振りとして見るように、その言葉を役柄の台詞と聞くように、要請する場所だからである。「劇場のルール」と言い換えても差し支えないが、舞台とはそのような機能がある。

戯曲の出来、俳優の資質のいかんを問わず、舞台を前にすると、いくら口うるさい観客であっても、有無を言わせず「劇場のルール」、すなわち観劇のお約束を守らされる。

愚放塾の演劇教育は、この舞台の性質を利用して、この観劇の約束=「劇場のルール」を仕掛けとして活用する。舞台はどこでもいい。「ここが舞台だ」とエリアを画して、そのエリアを舞台にする。そして観る人がいれば、舞台はどこにでも作られる。舞台に上がったら、どんなことにしろ、すべてそれは演技である。観客は演技として観てくれる、その約束事=「劇場のルール」があるからである。
 
あべこべの世界、それが舞台だ!
 
僕の経験から言って、舞台とは摩訶不思議な所である。

人前に出るのがあれほど怖かった僕が舞台の魔力に翻弄され、いつのまにか自分の恥部をさらけ出し、その恥ずかしい仕草を笑われることが快感となってしまったのだから・・・まあ、舞台にのこのこ上ってしまって、悪魔祓いのきかない悪魔に憑りつかれてしまったようなものである。

人前に出ると、口はもごもご体がくねくねとままならぬ自分に身の置き所もなくて、みんなから物笑いの種にされ続けた少年期から青年期、人目ばかり気になって自分を見失っていた僕の若かりし頃、その自分に憑りついた悪魔を振り払おうと、演劇に身を投じた。自分を変えようとして決死の覚悟でバンジージャンプ。谷底目掛けて真っ逆さまに飛び込んだ。飛び込み先は地元の劇団、しかし、人前恐怖症の悪魔祓いをしてくれるどころか、舞台に居ついていた悪魔にまんまと憑りつかれてしまったのだ。

取りついた悪魔は僕の心を丸裸して呪文にかけ、笑われることの快感を体の隅々にまで染み込ませたのである。
 
舞台のマジックを体験した
 
劇団の第●○期生担当の、通称「もんさん」は、僕ら研究生を巧みに誘導して、舞台を居心地のいい場所にしてくれたばかりか、そこに居ついている悪魔、いや、呼び名を変えよう、舞台の「エンジェル」と無理なく渡りをつけてくれて、笑われることを演技という別の仕方で、羞恥から快感へと接ぎ木してくれたのである。まさに僕は舞台のマジックを体験したのである。

(このあたりの詳細は「塾長インタビュー:演劇とは何だと思いますか?(Q16)」に載せてあります)

舞台のマジックとは、ありのままの身振りであっても、本心から出た言葉であっても、舞台に立ってしまえば、すべてが演技として観られることである。

舞台という場所に立つと、誰もがいつのまにか俳優になっている。目の前に観客がいることで、その見られる意識が知らず知らずに俳優に変えてしまうのだ。上述した舞台という場に据えてある「お約束」機能が稼働するからである。

ただし、もうひとつだけ「お約束」を付け加えるとすれば、目の前にいる観客は、見るだけではなく舞台に立つ俳優でなければならない。互いに演じ、そして、観るという「見る―見られる」を分かち合うことが、舞台マジックにおいては重要な要因になる。

愚放塾の演劇教育は、「見る―見られる」関係をもっとも重視している。お互いが信頼しあい、認め支え合う「見る―見られる」関係こそ、舞台の機能を最大限に増幅させる装置だからである。

ワークショップにおいても、互いの信頼関係を築き、安心で安全な場づくりから始める。

その前提条件さえクリアー出来れば、舞台ほど不思議で面白い世界はない。ありていに言えば、舞台とは、さかさまの世界である。あれほど人前で笑われることが恥ずかしかった僕が、みんなの前で臆面もなく恥ずかしい動きをしても平気になったのだから。
 
それだけでは終わらない!
 
笑われないと気が済まなくなったのだ。笑われるために、もっと恥ずかしいことを仕出かす始末。自分が解放されて今まで隠れていた恥ずかしい自分が表現しだしたのだ。こんな気持ちのいいことはない。

気持ちよさにかまけてスケベ心が出て、うまくやろうとすると、今度は試練が待ち受けている。あれほど笑った観客の反応が変だ。おかしいなと焦って、あれこれ演じてもうまくいかない。落ち込んで舞台から降りようとしたその時、どっと笑いが起こったりする。ホウホウの態の情けない顔のとき、舞台のエンジェルが気まぐれに微笑む。舞台とは不思議な世界である。

僕はその世界に、かれこれ30年以上いる。しかし、舞台には汲めども尽きない謎がある。その謎を一言で述べるなら、ずばりこれである。「自己剽窃」である。あえて難しい言葉を使った。そのほうが謎めかしい印象を持ってもらえる(笑)

冗談はさておき、演技による「自己剽窃」、それは自分を真似する演技のことである。

もちろん、観客のあたたかい視線と反応が必要不可欠だ。その視線と反応に助けられて、「自己剽窃」の演技がなまなましく立ち上がる、「いのち」を帯びて、過去の傷が癒され、言ってしまえば、過去が吹っ飛び、未来がやってくる。恥ずかしい体験や傷ついた経験等々、心のいつまでもわだかまっている諸々の重い荷物を舞台に下ろして、過去の場面を自ら再現する。その場面の自分を自ら演じてみる。プレイバックして舞台で過去の自分を演じる。
 
舞台とは「いのち」のたぎる場所
 
自分が解放されると同時にその恥ずかしくて嫌だった自分が愛おしくなる。

よい観客とよい指導者に恵まれれば、それは傷の上塗りになるどころか、恥ずかしさ、みじめさを別の方向からつなぎなおし、「笑い」あるは「微笑ましさ」に変えてしまう。舞台は愛にあふれている。あれほど重荷だった記憶を過去のちっぽけな出来事にして自分を笑い返す。舞台は健康的な笑いが渦巻いている。

ちょうど彫刻家が、モデルが見せる姿とまったく別の彫像をそのモデルのを切り出してくるように、私という多面体が舞台という装置によって癒され、生き生きとした自分がさまざまな形になって彫りだされくるのである。

舞台とは燃えども消えない「いのち」のたぎる場所、ある参加者は、嫌で嫌でたまらない卑怯な自分を演じて疲れ切ったあとに、その嫌悪する自分を演じる喜びが心の底から突き上げてきたと感想を漏らした。嫌な記憶が許容され新たに喜びの記憶としてつなぎなおされた。もちろん、演じているときにあたたかい笑いの渦に包まれていたのはいうまでもない。

それにつけても、舞台とは期せずして「つなぎなおし」の起こる、本当に不思議な場所である。
 
参考記事:愚放塾の演劇教育論
「演劇ワークショップとは?」
「塾長インタビュー:なぜ演劇を「愚放塾」の中心に据えているのですか?(Q4)」
「自己プレゼン演技術その1」
「大学休学生、大学不登校生のための演劇教育」
「『自己変容』こそ命の原理である。」
「復学・復帰を目指す大学休学生、不登校生に『演劇の力』で目覚めてほしい。」
「『自己変容』とは、自己イメージを変えることにほかならない。」
「デヴィッド・ルヴォーの思い出(1)」
「演技の力」
「『プリコラージュ』演劇教育法」
 

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