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愚放塾の農業教育
2015/2/06 塾長ブログより
 
愚放塾において、農作業は格別の意味がある
 
たしかに農作業は気持ちがいい。心が晴れ晴れする。しかし、農作業の心地よさは、自然に向かって自分を解放するといった向きのものではない。まして自然からの慰藉を受けるという類のものでもない。農作業は生産労働であって、レクリエーションではない。

労働を通して、大地と、そして、自然との真剣な交流がある。ここが自然散策や森林浴、ひいては登山などと決定的に違う点である。

愚放塾では、自然農法によって農業を営んでいる。しかし、農業を生活の手段にするつもりはない。とはいうものの、採れた野菜を生きる糧にすることにはちがいない。もちろん農作業は労働であり、それは人間の生の営みである。

この矛盾を解くには、この人為的な行為をたんなる生産活動と捉えない点に注意が必要である。しかし、この注意を怠ると、真実をとり逃してしまうことになる。僕は決して詭弁を弄しているつもりではないので、しばらくお付き合いのほどを・・・
 
自然の営みに参加させていただく。
 

農業、それはたしかに労働ではあるが、自然の世界の一部を借りて、そこに人間がほんのわずかに手を加えているにすぎない。大方は自然がやってくれている、この事実を忘れてはいけない。

なるほど、日々、太陽から降り注がれる莫大なエネルギーは、生きとしいけるものすべてに分け隔てなく与えられている。その恵みがなかったら、私たちは片時も命を保つことはできないだろう。

お天道様とは、その恩恵を感謝の念をもって受け取って太古から庶民に維持されてきた太陽信仰の、素朴な表現である。太陽に限らず、私たちは自然の偉大な力に身をゆだねて生きている、そのことを忘れてはいけない。逆説的な言い回しを用いるならば、そのことを一時でも忘れないように農業をするのが、愚放塾の教育である。

自然の循環の輪の中に参加させていただく喜びをもって農作業に勤しみ、その結果、得られた自然の恵みをいただく。そのことの感謝を生きることが、愚放塾の農業教育である。
 
農業教育の意義とは?
 
誤解を恐れずに言えば、農作業とは、労働というより自然に身を委ね自然とともに生きる喜びである。そして、作物を食べる行為とは、自然の恵みを分かち合う喜びである。自然循環の営みに組み込まれると、咀嚼も最後の農作業となる、そのことを忘れてはいけない。

私たちの日常は、こういった自然の豊かな図から切り離されて、切っ先だけは鋭いが、どこか乾いて白々とした感性だけが取り巻いている。世間を賑わすむごたらしい事件は、毎日、後を絶たない。あれこれ政治的に論じ立てて立派な発言をしたところで、決して犠牲者の悲嘆を「実感」しているわけではない、その素朴な事実を忘れている。

論の展開はカーブを描いて、一見農業とはかかわりのないところに着地した、そう思われるかもしれない。たしかに唐突である。文章の拙さをお許し願いたいが、しかしながら、実のところ、この着地点は、それほど遠くないのではないか。

むしろ、至近距離ではないだろうか。
 
土の感触を忘れない、それは生きることの原点!
 
上述のひとくだりは、土を洗い流したきれいな野菜をスーパーで買って何食わぬ顔で「おいしい」と言って食べていることと、それほど違わないだろう。

野菜は土から生まれ土にかえるものだ、その過程で食べる行為がある。その事を忘れていることと、政治的発言とは、似通った過ちを犯しているにちがいない、そう直感したのである。

私たちは土にかえるまでの一時をこの世で過ごしているにすぎない、土から土への「有限な時間」を生きているにすぎない、しかし、大方はその事実を紛らして生きている。

政治的発言が悪いといっているわけではない。そうではなく、自然の恵みの、その循環の、そのつながりの中で、生きるていることの「実感」をもって生きること、その「実感」に伴って湧き上がる喜びや感謝に充たされた生活、その生活の土台に農業がある。そのことを忘れてはいけない。

そう言いたいだけである。農業しながら自然と交感を通して、失われたコズミックな循環の「つなぎなおし」をすること、それが愚放塾の農業教育である。

農業をすることに越したことはないが、たとえ農業をしなくても、心の持ち方次第で、農的感性を磨くことは十分可能なのである。約めて言えば、そういうことでもある。
 
参考記事:愚放塾の農業・自然教育
「自然農法の考え方は、不登校の生徒に接する仕方において目から鱗である」
「そうじゃない、ただ草刈りがしたいだけなんだ!」
「大学休学、不登校生諸君、農的「いま」を生きないか?」
「身体性を取り戻そう」
土はすべてを「ゆるす」
 
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