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哲学書を読むとは?
2015/2/10 塾長ブログより
 
哲学研究ではない
 
「ハイデガー入門」をほぼ1ヵ月かけて読んだ。30時間以上費やした。研究論文を読んだり、著者の読み取りに疑義を挟み異論を立てたり、わき道にそれたりしながら、やっと読了。今度は、ハイデガーの自ら著したもの、さしあたり「存在と時間」を読む予定。「入門」でこれだから、原書ならどれだけ時間がかかるか・・・

哲学書を読むことは、普通の読書とは違う。たんに知識を得ることではない。たんに内容を理解することでもない。納得するまでとことん考えることだと思っている。

僕は決して哲学に精通しているわけではない。しかし、哲学書の読み方については、中島義道氏の開く哲学道場「無用塾」にほぼ5年にわたって通い、その読み方を学んだ。

そこでは、原書でカントやヒューム、ハイデガー、ヘーゲル等を読み、その一字一句を原語からひも解き、哲学独特の言い回しを正確に読み解いていく。ほんの3行ほど内容を3時間以上かけて議論することも稀ではない。

僕は学者ではないので、無用塾で行ったようなことはできない。たとえばカントであれば、ドイツ語の原文にあたって正確に読むことなどで到底無理である。
 
徹底的に考え抜く
 
本来考えることが好きだったが、無用塾での5年にわたる経験は、好きを酔狂のレベルまで引き上げたように思える。いまではいくら考えても考え足りないと思う。その程度までには思考の錬度が上がった。

形而上学的な議論が凡庸な人生論になったとしても、些細な部分にこだわって脇道にそれようが、頭がしびれるくらい徹底的に考え抜く。考える材料に良し悪しはない。

考え抜くことは、経験によって汚れた知識をキレイ洗い直す作業です。

日常の、とりわけ人間関係において、苦労をしている人は多いと思う。僕はそういう人にこそ哲学書を読んでほしいと思っている。

理性と感情の狭間で悩み、自分から仕掛けて罠にはまってしまうような事態を招いて、ときには、ヤケ食い、ヤケ酒、衝動買いに突っ走ることもあるだろう。

盛り場で金をばら撒いて憂さ晴らしをする気概があるうちはまだいい。ひょっとすると、解決の糸口を見つけるのも面倒になって、だらだらと悩みながら、しょぼくれた日々を過ごして、思考の慢性的麻痺状態に陥っている人がいたら、まずは哲学書を読むことをお勧めする。
 
哲学の醍醐味は、「無知の知」を自覚すること
 
哲学書を読む秘訣は、お経を読むように、何べんも何べんも繰り返し読むことである。そうしているうちに気持ちが落ち着いてくる。徐々に思考が働き出し、きっと考える手がかりが見つかるはずだ。

内容のすべてが分からなくても全然大丈夫。ほんの一部を理解できればそれだけで十分。大切なことは、思考の道筋を行きつ戻りつ、何が分かって何が分からないのかをはっきりさせることである。

「論語」に、「これを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、これ知るなり」という章句があるが、これは「分かることを分かるとして、また、分からないことは分からないこととして理解すること、これが、分かること」という意味。

ソクラテスも、「無知の知」を説いたが、何が分かって、何が分からないかを明確にすることは、まさに哲学的な営みである。
 
哲学書をお経の如くに読むことの功徳
 
難解な文章を一行一行丹念に読み、そして、考えあぐねて、ああでもないこうでもないと、頭がこんがらかってしまって大いに結構。その思考の縺れをじっくりと解きほぐす作業こそが、哲学書を読むことの醍醐味なのだ。

こういう思考の体験を積んでいくと、人間関係で感情がこじれたときに、哲学的思考が手助けにやってきては、一刀両断とはいえないまでも、ああしてそうしてこうなったのだから、今度はこうしてそうしてああすればいいと感情の綾を解きほぐしてくれるにちがいない。

たとえ感情的しこりが残っても、哲学書を読んで「ああでもないこうでもない」と考えることの快楽が不快な感情を巻き込んで、きっと心を癒し、楽しみ喜ぶ気分をもたらしてくれるはずである。
 
参考記事:
→塾生の感想「塾生日記『ハイデガー入門を読むということ』」
→思考の忍耐力をつけること「休学生、不登校生は、楽観的か?、悲観的か?」
→古典について「古典を読むとは?」
→情報化時代にこそ哲学「知識の汚れを落とし、納得のいく人生を手に入れよう」

 
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