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「自分を使い切る」とは、どういうことか?
2015/1/30 塾長ブログより
 
「自分を使い切る」教育とは?
 
愚放塾の教育とは、一言で言えば、「自分を使い切る」ことを通して、自分と出会うこと、そして、自分を育てることである。

今日はそのことを説明しようと思う。

用いる教材は、具体的なものではない。「つくる」という行為そのものである。

何でもいいから「つくる」こと。ただし、廃材を主に用いて、自分の力でゼロから作り上げることが条件である。

いま、塾生のA君が不要になって譲り受けた一斗缶とか物置にあった廃材の針金などを使って、燻製器を製作中であるが、思うように燻製ができずに苦労している。

原因は燻製の火元である豆炭の火力が持続せず、途中で消えてしまうことにあるらしいのだが、換気口を大きくしたり、切り炭を使ったりと、いろいろ工夫し試行錯誤しているが、原因が分からず、モチベーションも鎮火した状態を迎えている。

もっとも作っているときは順風であった。帆に風を受けてすいすい進んだ。

一斗缶を切ったり穴をあけ、針金を細工して燻製器をつくっているときは、設計図こそないものの、頭の中に出来上がりのイメージが明確にあり、そこへ向かっていけばよかった。

廃材を利用して部品から作っていく作業は面倒ではあるが、やり甲斐がある。たとえ失敗してもやり直せば、つぎつぎと形となって完成に近づいていく。努力が目に見えることは張り合いであり、喜びである。
燻製器1
A君は製作に没頭した。この経験だけでも、A君にとっては貴重な経験であった。いままでこれほど作ることに夢中になったことはなかったという。作ることはおろか、そもそも昼食を取るのも忘れて5時間以上も熱中する経験が初めてだったそうである。
 
そう簡単に事が運ばないから、成長する
 
この燻製器を拵えるに当たっては、いろいろ調べて設計図を描き、不要なものを適材適所に配し部品に加工し、修正して組み立てたのだが、成果を出すとなると、燻製の味はもとより、それ以前に薫製器が思い通りに作動するかが問題になってくる。

作ったものを用立てるものに仕上げていく、その行く手には難題がごろごろ転がっているのだ。

A君にとっては何もかもが初めての経験である。まさに人生と同じである。人生が組み立てキットのようなものなら話は別だが、生きていくことは誰もが未知の経験を余儀なくされる。

火元がうまく働かない、その原因がわからない、薫製器づくりという、はじめての経験に四苦八苦している。あれこれやってみるが手繰っても手繰ってもままならないことの連続。万策尽きて、やる気も失せて、いささか意気消沈している。

しかし、「自分と出会い、自分を育てる」という意味合いにおいては、ここからが大事である。

努力がなかなか目に見える形を生まず、少しも事が立ち行かない。あれこれ考えてやってみてもことごとくうまくいかない。失敗の連続、万策尽きて、もうあきらめようと思った瞬間、その自分を「使い切った」地点、ここからが大事なのだ。

なぜなら、そのとき、すでに自分と出会っている。自分を使い切って打ちひしがれた自分と対面しているからである。なぜなら、そのとき、すでに新たな自分が胎動している。ぼろ雑巾のように擦り切れた自分のなかに新たな自分がすでに立ち上がっているからである。
 
あきらめなければ、自己変容は起こる!
 
目に見える結果を欲しがるのは人の情の常であろう。しかし、結果の出ないときの努力の如何によって人は変わる。

自己変容とは、得てしてそういうものだ。

成功が自己変容であるとするならば、その成功は失敗を通してしか得られない。

停滞、そのときのあり方で新たな自分が育つ。人生からメッセージを受けたもう一人の自分が結果の出ない陰でひたすら自分を育てているものなのだ。

自分を使い切ることは自分の限界を目の当たりにすること、なるほど自分を使い切るとはそう容易くできることではない。

壁にぶち当たってその壁に何度も何度もはね返される、自分のすべてを使い果たしてもう無理だと打ちのめされる。自分の限界が暴露され、無一文になった惨めな自分を認めざる得ない。

まさに死の経験をしている。これからどうすればいいのか、途方に暮れている。未来の見えない止まった時間を生かされている。

いささか大げさに書きすぎの感もあるが、A君の場合も少なからずに死の経験をしている。

死の経験を潜ること、その経験を生きることが、自分を脱し、自分を育てることになるのだ。僕はそう確信している。

もちろん燻製器がうまく作動することが目的なのだが、必ずしもそれは重要ではない。

その過程がなにより重要である。教育的には、その過程を丁寧に一歩一歩歩んでいくことがなにより大切なのである。

燻製器はいわば外化された自分である。その自分を決してあきらめることなく、いかに大切に育てるか、それがすべてである。

薫製器=自分が行き詰って機能しないとき、辛抱強く悪いところを探し出し、試行錯誤して、目的をちゃんと果たせるまで、あきらめないで、その自分ととことん付き合うこと・・・ふとしたときにどこからか、声が聞こえてくるのだろうか?

「時間をかけて丁寧に付き合え、うまくいかないからといって投げ出すような真似するな」と。

きっとそれは人生からのメッセージにちがいない。
 
結果の出ない「自分」と向き合う時間が自分を練り上げていく
 
ああでもない、こうでもないと試行錯誤して、じっくり自分を本来の自分まで練り上げていく。

なかなか解決策が見つからなくても、その煙の出ない燻製器の自分を眺め、向かい合って、その可能性を探っていくこと、その辛抱強い時間が自分をかけがえなのない本来性にまで練り上げていくのだ。

もとより苦労が実って成功した時はその精魂込めた時間がかけがえのない財産になるだろう。

たとえ燻製器として役に立たなかったとしても、この薫製器の生きる道がみつかるまで考え切ることによって、柔軟な思考と忍耐強い精神が身についているだろう。

いずれにせよ、薫製器には、いいしれぬ愛着が生まれるに違いない。

その愛着の両面には自分を決してあきらめない強さと人を決して一面的に決めつけない優しさが貼り付いているはずである。

こういう経験を潜ったことで、自分を見限ったり、自分をあきらめさえしなければ、決して万策尽きることはないことを知る。自分の中に、自分の本来性を見出し、自分を育て上げる力がしたたかに宿っていることに気づく。僕はそう確信している。

愚放塾には、この経験を可能にする、豊かな時間と場が用意されている。
 
参考記事:
→塾生の熱中記録の続編(はたして燻製器は完成したか?)「やりたいことをやり尽くす、そこから、使命への道が開けてくる」
→「使い切ること」を自然に学ぶ「滅びの力を利して生きること、それが自然の摂理である」

 
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