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インタビュー

愚放塾について、塾長がQ&A形式で答えます。
塾長の悩み深き青少年時代の体験を交え、教育について語ります。

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愚放塾とは?

Q1.「愚放塾」とは、どのような塾ですか?
A1. 本来の自分を見失って、自分の活かし方に悩んでいる人たちの「再生避難所」です。

しかし、駆け込み寺のような「与えられた」居場所とは少し違います。互いを尊重しながら、互いが自分の心に正直になれる居場所を自分たちで作っていきます。愚放塾は、「つなぎなおし」をコンセプトに、演劇と農業を通して、塾生たちの自主性を尊重し、それぞれが、新たな自分とつながり、新たな仲間とつながり、新たな生き方とつながるためのカリキュラムが組まれています。

たとえば、演劇の授業ではどんなことするのか、簡単に紹介しますね。演劇は英語でplay、俳優はactorです。愚放塾では遊びながら行動し、本来の自分を花開かせます。たとえば、理想の誰かの真似をするワークがあります。物まねに似ていますが、たんなる物まねではありません。上手い拙いは関係ありません。なり切ることが大切です。なりたい人になり切って、仲間の前で演じてみます。演技は観客との共同作業だといわれますが、その意味は、観客の視線が場に臨場感をもたらし、俳優は演技を現実のように感じるのです。愚放塾の仲間たちが見守る中での演技、あたたかい視線を受け取りながら、理想の役が現実のものとして自分の中に息づいていくのを実感するでしょう。仕草や話し方をそのひとになりきって真似することによって、自分の中で新たな自分が芽生えてくるのです。

虚構世界を役になりきって生きることによって、現実世界の自分との「つなぎなおし」が起こり、新たな自分のマインド形成のきっかけになるのです。このように書くと難しそうですが、普段から姿勢を意識して生活するだけも、脳神経のシナプスの結合がつなぎなおされます。脳科学でも認められていますよ。たとえば、猫のように姿勢を丸めて自己紹介するより姿勢を伸ばして言った方が、自己肯定感が高いという実験結果も報告されています。たんに外見を変えただけでも心理的効果が生じるのです。子供は接する相手によって無意識に態度を変えたり、その人になりきって遊んだりする「ふり」によって成長していくのですよね。子供は演技の効果によって脳を発達させていくのです。このことからも、愚放塾の教育コンセプト「つなぎなおし」と演劇との結びつきがご理解していただけるかと思います。
* 参照文献:「脳には妙なクセがある」池谷裕二、「化粧する脳」茂木健一郎

続いて農業についての話をしますね。農業は授業というより、農業体験と言った方がよいかもしれません。私は晴耕雨読という言葉が好きです。晴れれば農作業、雨降りの日は家で本を読む、こんな生活、いいと思いませんか。太陽に当たればそれだけで気持ちいい、こんな当たり前のことも日々の忙しい生活ではめったに感じることもありません。アスファルトやコンクリートに囲まれて、土の匂いや感触をつい忘れていませんか。また、食べることが最後の農作業であることなどは、都会に住んでいる私たちには思いすら至らないでしょうね。実際に農作物を育てみれば分かると思いますが、収穫した野菜を口に入れ咀嚼してようやく農業労働が終わるという実感が湧いてきます。ともあれ、農業体験は、都会の無味乾燥とした生活から離れて、地球と身体との直接対話に誘ってくれます。種まきから始まって収穫の喜び、そして食べる喜び。まさに生命のドラマです。生きることの根本的感覚を実感できるのではないでしょうか?

農業によって生きることの感覚がつなぎなおされ、都会での暮らしでは味わったことのない生きる喜びを知ることになるでしょう。日々の競争に疲れたみなさんにとっては、農業体験は自分を取り戻してくれる癒しの場になるでしょう。変化のないオフィスワークに嫌気のさしたみなさんには、農作物に大地のエネルギーを感じることでコスミックな感性を呼び覚ましてくれる、よい機会になるはずです。農作業で体を動かし、丸ごと生の喜びを味わいましょう。古来、農作業の合間に歌や舞が行われてきましたのも、過酷な農業労働を生きる喜びに変える知恵だったのではないでしょうか?その知恵が、農業と演劇を結びつけたのです。

愚放塾が提唱する「アグリエイター」は農的な生き方をする人のことです。農業をしながら創造的な生き方をする人のことです。あるいは、こうも言い換えられます。自己を耕し、人生を開拓し、未来をつくる人のことです。いずれにしましても、「アグリエイター」とは、生きる喜びに満ち溢れている人のことです。

「愚放塾の生活」については、こちら→「24時間フルタイム教育とは、詰め込みでもなければ、スパルタでもない」をお読みください。

Q2.「愚放塾」の名前の由来を教えてください。

A2. 愚かさを放って世間のモノサシを吹っ飛ばせ!そして、真の自由人になろう。こんな意味を込めてつけました。

「つねに愚かに生きることができないほど人間は愚かである」と親鸞は言いましたが、愚放塾の「愚放」とは、「愚かさを放つことによって、愚かさから放たれる」という、上の親鸞の言葉に心打たれて命名しました。

これだけでは分かりにくいと思いますので、もう少しくだけた説明をしますね。「愚」という言葉は、普通はネガティブな意味で用いられますが、「愚か」であることは、ときにとんでもない力を与えてくれます。道化師は愚かさを逆手にとって世間の常識に一石を投じます。カーニバルの大騒ぎもそうですが、その愚かしい騒ぎのなかにこそ、新たな価値創造する大きなエネルギーが宿ることは周知のとおりですよね。まさしく愚を放つことによって「常識的な愚」から放たれるのです

理屈に抜きに、「愚」と「放」、この2つの言葉を並べて、大空に向かって『グッホー』と思いっきり叫んでみましょう。くよくよ思い悩んできたなどどこかに吹っ飛んで、なんだか晴れがましい気持ちが湧き上がってきませんか?

もしかしたら、「ハングリーであれ、愚かであれ」の言葉を思い出す人がいるかもしれませんね。ところで、この言葉、誰の言った言葉か、ご存じですか?

答えはスティーブ・ジョブズ。iPhoneやiPadを発明した人です。そう言われれば、知っている人も多いと思います。彼は20代の前半でアップル社を創業し、若くして世界的な成功を収めました。「トイ・ストーリー」などの映画の数々もいまや世界中の生活に浸透しています。「ハングリーであれ、愚かであれ」、この言葉は、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大で行った名スピーチの結びの言葉です。さらに問題をひとつ。このアメリカの生んだ天才経営者は、なぜ「賢く」ではなく、「愚か」でなくてはいけないと言ったのでしょうか?

愚放塾に入塾してから、いろんなことを経験するなかで、じっくり答えを見つけてもらいたいところですが、せっかくだから一緒に考えていきましょう。では、ジョブズの人生を振り返ってみましょうか?彼は私生児で生まれました。大学は中退、就職もしませんでした。はじめから世間のモノサシからは外れていました。決して世間でいう賢い道を歩んだのではありません。むしろ世間の常識などお構いなしに、自由放題な生き方をしたのではないでしょうか?

確固とした技術もキャリアもないまま、彼は自宅のガレージで友達と仕事をはじめました。世間の目にはさぞかし「愚か者」と映ったに違いありません。しかし、自分の好きなことを存分に生きたからこそ、希代の成功を手に入れられたのではないでしょうか?私はそう思います。スティーブ・ジョブズの、この自由奔放な生き方にも敬意を表して「愚放塾」と名付けました。

「愚かさの捉え直し」については、こちら→「『豚もおだてりゃ木に登る』の本当の意味は?」をお読みください。

愚放塾の教育について

Q3. 何を学べるところなのですか?

A3. ズバリ、「自分」を学ぶところです。

…と言われても、ピンときませんよね。ところで、もしもあなたがこのインタビューを読みながら「愚放塾」に入ろうか悩んでいるならば、それだけで、すでに自分を学んでいるのです。「生きづらい現状から逃げて愚放塾で学び直そうかな」という思いが心をよぎって「あれこれ」と思案しているときに、すでに自分を学んでいるのですよ。

いままで我慢して抑えてきた自分と正面切って向き合い、心の正直な声に耳を傾けたときから学びは始まっています。自分の心と真剣に対話すること、それだけで「自分を学ぶ」という大きな学びを手に入れたことになるのではないでしょうか?ところで「自分とはなんですか?」と聞かれて、すぐに答えられる人はいますか?きっと正しく答えられる人はほとんどいないと思います。なぜなら、あなたがいま認識している自分は、これまでの人生の中で、人から言われた言葉の集合にすぎないからです。試しに「自分」を思いつくままに書き出してみたらどうでしょう。その自分は、親はもちろん、学校の先生、友達などから言われた数々の言葉によって、埋め尽くされているのに気づくはずですよ。

愚放塾の教育の根本は、互いの存在それ自体を尊重し合うことです。相手のありのままを受け入れ、自分のありのままを受け入れてもらう、互いに認め合い支え合う関係を築くこと、このことは愚放塾の教育において、なにより大切なことです。この「支援力」こそ、愚放塾の憲法にあたるといってもよいでしょう。そして、お互いの「ありのまま」を支え合う「支援力」を土台に愚放塾の授業は行われていきます。

「支援力」を養う授業を簡単ですが、紹介しましょう。手始めは、簡単なワークです。互いを認め合い、自分の心に正直になることから始まります。演劇の手法を用いた、トラスト(信頼)ゲームなどのシアターゲームやエチュードと呼ばれる「即興寸劇」を楽しみながら、いままで身にまとってきた「偽りの自分」を脱いでいきます。互いの「ありのまま」を認め合う仲間の前で、いろんな役に扮した演技をすることで、自分の「繕ってきた薄皮」を1枚1枚丁寧にはぎ取っていきます。その作業はほぼ2か月間、続けられます。最後は、全員が舞台に立ちます。不要な衣を脱ぎ去り「あるがままの自分」になって、「未来の自分」を演じます。

「あるがままの自分」で「未来の自分を演じる」……つまり、各自がそれぞれの「希望」を達成するまでのストーリーを作り、セリフに起こし場面を構成し、舞台仕立てにして演じるのです。仲間に登場人物になってもらい、「輝かしい未来」を達成した主人公になってその虚構空間を現実さながらに演じるのです。もちろん、一人芝居で未来の主人公を演じても構いません。その稽古と並行して、私が「ミッションワーク」と名付けたレッスンが行われます。自分が生まれてきた意味を探るレッスンです。このワークでも、みなさんは、「裸の自分」になって偽りのない心と正面から向き合うことを経験します。

演劇においては、演技を通して「繕った自分」を剥ぎ取っていきますが、ここでは自分の中に宿っている潜在的な言葉を吐き出すことで、「裸の自分」になっていきます。もちろん、この作業が演劇のセリフづくりに役立つことは言うまでもありません。演劇の稽古と「ミッションワーク」の相乗効果によって、本来の自己とつながり、使命を見つけ出し、自分の本当にしたいことがありありと臨場感をもってイメージされるようになるのです。ひょっとしたら、すべてをはぎ取った裸の自分には、もはや何も残されているものがないように感じて不安になる人がいるかもしれません。

何もないけど、すべてある!

そうです!そこからが、みなさんの真のスタートです。本来の自分とつながったみなさん、大丈夫ですよ、自信を持ってください。

すべてあるけど、これしかない!

ありのままの自分を肯定できたみなさんはすでにたくましく成長しています。ありのままの自分の中から、一番輝いている自分、好きなことを夢中でしている自分を見つけ出します。それがあなたの才能です。その才能を生かすことがあなたの使命です。

これしかないけど、これを生き抜く!

好きなことを好きなだけして自分の才能を磨く、これが使命の自覚です。みなさんは、「愚放塾」を卒業するころには、きっとこの使命に導かれて新たな人生を一歩踏み出すことになるでしょう。「愚放塾」では、自分のなかに眠っている、かけがえのない宝の見つけ方を、仲間と支えあいながら学んでいきます。宝物を見つけたら、その自分を思う存分に磨けばいいだけです。みなさんがどんなふうに変わっていくかが、私たちの楽しみなのです。

参考記事:
「ほとんどの人は目標を投げ出すが、投げ出さない人の特徴とは?」
「生き方に迷っているあなたへ」
「『自分を使い切る』とは、どういうことか?」
「がんばらない、らくしない、ごまかさない」

Q4. なぜ演劇を「愚放塾」の中心に据えているのですか?

A4. 演劇は私にとって、教育であり、喜び、そして、人生だからです。

私には30余年の演劇経験があります。24年の中高の教員経験があります。教員時代は、昼は学校の演劇部で生徒を指導し、夜は劇団で演出をしてまさに演劇三昧の日々でした。もちろん、授業もちゃんと真面目に行っていましたよ(笑)当時の私にとって、なによりの喜びは生徒や団員が演技を通して自己変容していくことでした。稽古の現場で、ふとしたことがきっかけで演技がガラッと変わる瞬間をなんども目の当たりにしました。そして、いったん蛹になったのち蝶となるように、各自が自己変容していくことに深い感慨を覚えました。いまでも鮮明に覚えていることがあります。

ある日、演劇部の部室の入り口に一人の生徒が立っていたときのこと。もちろん、そのこと自体は別段変わったことでありません。誰の紹介もなしにいきなり演劇部の部室に入ってくる生徒はよくあることです。しかし、彼はおどおどして、見るからに自信がなさそうでした。演劇に興味を持つイメージからは程遠い、およそ場違いな印象がありました。話しかけてもぼそぼそと口ごもって、何が言いたいのか全く分かりません。いや、何か言いたいという気持ちは強烈に伝わってくるのですが、その言葉がまったく聞き取れません。よくよく聞けば舞台に立ってみたいというのですが、無理だろうというのがそのときの率直な感想でした。

ずいぶん後になってから分かったことなのですが、彼はクラスで「からかい」の対象とされ、部活に入っても皆から「物笑い」の種にされ、いつもいじめられていたのです。彼にとっては最終逃避地が演劇部だったのです。私たちは、ともあれ、彼をあたたかく迎え入れました。演劇の基本は支え合いです。相手を丸ごと受け入れることから演劇は始まります。相手を丸ごと受け入れ、対話する……舞台は対話の芸術と言われていますが、その意味するところは、舞台上の演技に限られません。照明、音響、大道具をはじめ、劇場スタッフに至るまで、舞台にかかわる人たちすべてが、互いに支えあい、対話を繰り返して、はじめて一つの舞台ができるのです。「愚放塾」の3本柱の一つに「支援力」がありますが、相手を認め、支えることが自分を生かすことになる、それが端的に実感できるのが、舞台づくりという場なのです。仲間に自分が受け入れられる経験、おそらく彼にとっては初めてだったのでしょう。彼の表情はみるみる明るくなり、彼独特の個性が花開いていきました。

とりわけ彼が劇的に変わった瞬間、それは突然訪れました。普段となんら変わることのない、ある日の稽古中のこと。なかなか演技がうまくいかず、彼の体が氷のように固まった次の瞬間、一連のそれは起こりました。何度チャレンジしても相方との間合いが取れません。力の入った余計な動きが邪魔をしてその場を壊していたのです。彼はうまくやろうとするあまり、相手が見えず、彼本来の良さをも殺していたのです。そこで私は稽古を中断して休憩しようといいました。だが、彼は納得しません。いつまでもそこを立ち去りません。そこでもう一度、チャンスを与えましたが、結果は同じでした。体を固くして唇をかみしめている彼、みんなが見つめる中、彼はいたたまれないようにその場を後にしました。そのとき、です!

私の目には、萎れて力の抜けた彼の体から、彼本来の姿が見えたのです。私は即座に彼を呼び止め、「いまの動きの方がずっといい、いや、君の本当の姿だよ、素晴らしいね、まいったなぁ」と、彼を励ます気持ちもあってか、多少大げさに褒めました。すると、彼はうつむいたままこちらを見ようともせずにそのまま自分の席に戻っていきました。彼にとって失敗は過去の忌まわしい記憶を呼び起こすことにほかなりません。失敗して退場する自分の姿は、みじめで恥ずかしいものには違いなかったのです。それに加えて、私の少しおどけた言葉が彼のやりきれない心に追い打ちをかけたのでしょう。傷ついた心には、わざとらしい見え透いた嘘、からかわれて物笑い種にされているとしか聞こえなかったに間違いありません。

というのも、私の言葉を耳にした瞬間、彼の顔には怒りにも似た翳りがさっとよぎったからです。ほんのかすかな一瞬ではありましたが、その変化は誰の目にもはっきり認められました。彼の意外な反応にいささか戸惑った私は、すぐさまフォローするように、自分が思わず放った言葉の意味を説明しはじめました。「舞台で輝いた演技とは上手い下手を越えたものだ。いくら上手にセリフを言っても演技に嘘があれば、観る人の心には響かない。自分の心に正直であれ、これが演技の基本なんだ。上手くしようとすればするほど、本来の自分から離れていく。嘘偽りのない自分を観客の前にさらすこと、舞台上では、これが一番、素晴らしいことなんだよ」と。

私は、黙り込んでいる彼の目を覗き込むようにして、ある提案を持ちかけました。そう、いま萎れて退場したその体のまま、もう一度、演技をしてみてくれないかと。彼は躊躇しました。いま言われていることがよく分からないようでした。しかし、私の確信に押し戻されるように気を取り直して演技をし始めました。たどたどしい演技の中にわずかに萌した彼の本来の動き、私がその動きを後押しするように、「もっと大きく動かして!」というと、彼はおそるおそる動きを大きくしていく、そんなやり取りを繰り返していきました。そのうちに、彼の内面が少しずつ開かれてきまたように感じられました。わずかですが、彼の内面の窓が開いたように思われたのです。私はその瞬間を見逃しませんでした。彼の演技から艶々として生き生きしたものがほんの瞬間立ち上がったのです。

「いまだ!」と見て取った私は、すかさず音楽の力を借りて彼の動きをさらに増長させてみました。すると、どうでしょう。期せずして仲間から拍手が湧き上がるではありませんか?何が何だか分からないものの、経験したことのない喜びが体の奥からあふれて興奮している彼の躍動する内面が、傍目からもはっきり分かったのです。他人の視線と言葉の暴力によって長らく抑え込んでいた自分、自ら恥ずかしいものとして表に出すことを禁じていた自分が、そのとき初めて、自分ならではの動きとして日の目を見たのです。

ふと気づくと、みんなから賞賛されている、この驚くべき事態に彼は戸惑いながらも、抑えがたい喜びに全身を浸していました。この出来事をきっかけに彼の演技は見違えるようになりました。自信に満ちて、ありのままでありながら決して自分ではない役を演じるようになりました。本番の舞台でも仲間に支えられて、本来の自分を余すことなく表現し切りました。

ありのままであることは、必ずしもすべてをさらし出すことではありません。大切なのは、状況々々に応じて自分を偽らないこと。たとえば、日常においても、演技する必要に迫られる場面は多々ありますよね。しかし、彼のように本来の自分とつながっていれば、ありのままでありながら決して偽らない自分を相手に伝えることができるのです。舞台は、そういう意味では、演技という衣を借りて偽りのない自分をさらすことのできる最高の場です。まさに演技とは、本来の自分とつながるための願ってもない方法ではないでしょうか?

これが、600人に及ぶ若者との出会いから得た、私の演劇観であり、「愚放塾」の第1の柱として演劇を取り入れた理由です。

参考記事:
「愚放塾の演劇教育」
「演劇ワークショップとは?」

Q5. コミュニケーションが苦手な人でも大丈夫ですか?

A5. ぜったい大丈夫です!まずは、その理由を考えてみましょう。

そもそもコミュニケーションとはなんでしょう?立て板に水を流したように話すことでしょうか。それとも、誰とでも上手に付き合えることでしょうか。「愚放塾」では、演劇の手法を使ったワークを行いますが、決して滑舌や身振り仕草といった演劇お決まりの訓練はしません。「愚放塾」が重んじるコミュニケーション能力とは、聴く力です。話し上手、話し下手、聴き上手という言葉はよく使われますが、聴き下手という言葉はあまり聴きませんよね。

ところで、今の世の中、聴き下手の人が多いと思いませんか?相手の話などそっちのけで自分の言いたいことだけを話す人、こんな人は論外ですが、話を聴いてほしいのにすぐアドバイスしたがる人、言葉の背後を察してくれない人、言ったことをすぐにまとめて聞いたつもりになっている人、こんな人たちは、いっぱいいますよ。言葉をしっかり受け止めて聴いてくれる人って意外に少ないとは思いませんか?「愚放塾」の演劇トレーニングは、相手の言葉をよく聞くことからはじまります。それが、そのまま自分の心を聞くことにもつながり、ひいては本来の自己と出会うことになるからです。本当のコミュニケーションは聴き下手では決して成り立ちません。聴き上手になること、それが他人はもちろん、自分とのコミュニケーションを上達させる早道です。

ある先輩女優がこんなことを言っていました。「今晩の舞台は、相手のセリフをよく聴くことができたので、自分の演技に満足しています」と。演技の真髄は心身の応答性にあります。相手のセリフに身を入れて聴くことが自らの演技を深め、味わい深いものにするのです。

参考資料
「演劇コミュニケーション教育」

Q6. 卒業すると、何が変わるのですか?

A6. 目の色が変わります(笑)。そして、やる気と自信、天賦の才能に目覚めます。

「愚放塾」では、本来の自分に目覚め、生き生きとした自分を取り戻す演劇ワークと農業ワークの授業がありまします。そして、残りの期間で、自分のやりたいことを、やりたいだけ、やりたいように、やります。その中から、天職を探し、それを磨きます。その成果が卒業を意味します。

分かりやすい例がありますので、私のかつての教え子の話をしますね。彼女はなかなか職に就くことができず、フリーターも長続きしませんでした。面接を受けても、心のどこかからともなく「違う!」という声が聞こえてきていつも失敗。中途半端な気持ちでだらだらした生活していたのですが、ある日、気分転換に海外へ旅立ちました。異国の地で、ふと子供のころ落書きが大好きだった自分を思い出しました。現状から離れることで幼いころの自分と再会することができたのですね。本来の自分との「つなぎなおし」が起こったのです。

「そうだ!絵を描こう」と決めた彼女は、その日から独学で毎日スケッチの練習をしました。充実して楽しい日々だったと振り返っています。少々歳月はかかりましたが、いまではイラストレターとして活躍しています。本来の自分とつながった人は、強いのです。無我夢中で自己実現を遂げてしまいます。そういえば、私たちは苦手なこと、嫌なことを無理矢理やらされてきたように思いませんか?それが日本の教育ですね。私も教師としてその片棒を担いできた人間の一人ですが、つねづねそのことには疑問を抱いていました。

かつて私は有名進学校の教師をしていました。その高校で演劇部を創設し、顧問をしていたのです。その時のこと少々お話しましょう。創設当時の演劇部には、ハグレ者が多く、成績不振の生徒も多く、もちろん優等生もいて、いろんな個性の寄せ集めのような部でした。なかには、何のために演劇部に入ってきたのかわからないような生徒もいました。できたばかりの部で、部員の気持ちも意欲も一つの方向へなかなか定まらないような状況でした。そこで、困り果てた私は「演劇部に入ったのなら、嫌なことはしなくていい、好きなことだけをみつけろ、頑張らなくていいから、夢中になれ、ただし、ひとつの舞台をつくるために、夢中になれ」と偉そうにも訓辞を垂れました。

「俳優でも、音響でも、大道具でも、小道具でも、衣装でも、メイクでも、チラシづくりでも、得意な何かを探して、夢中になれ、それぞれの役割にランク付けはない。すべての人の力がひとつにまとまって、はじめて一つの舞台ができるんだ」と。私は演劇を指導するのが好きでたまりませんでしたから、夏休みなどはほぼ毎日、しかも、午前9時から午後7時まで、昼食を除いて休みなし。ハードな稽古でしたが、私は少しも疲れませんでした。好きなことしていると、疲れないから不思議です。

そんな私の熱狂は生徒たちにも乗り移っていきました。稽古場は好きなことひとつに打ち込こむ熱で溢れかえるようになりました。彼らはだれ一人として落ちこぼれることなく、創設1年目の舞台を立派につくり上げました。余談ですが、彼ら彼女らのほとんどは目標とする大学に合格しました。手前味噌になりますが、私の指導する演劇部の生徒は、好きなことに徹底的に打ち込んだ結果、期せずして、勉強面での目標も達成してしまったのです。演劇部は、毎年、有名大学にかなりの人数を送り込み、学校の進学成績に十分すぎるほど貢献しました。本当ですよ、あの子たちがね、まあ、なんとも感慨深いこと!こんなデータがあります。ピアノを練習して上手くなるとピアノだけでなく、ほかの能力も伸びるといいます。ピアノに習熟することで、脳内のシナプスが新たなネットワークを形成し、そのネットワークはほかの回路にも使われるらしいのです。だから、ピアノを習ったために国語も数学も成績が上がったなんてことが起こるのです。

要するに、好きなことに夢中になって取り組み上達すると、ほかの能力にも波及効果があるのですね。私はこのことを最近知りました。当時は無我夢中でそんな科学的な根拠があることなど思ってもみませんでした。「愚放塾」では、自分の好きなことを好きなだけやる期間を設けていますが、まず塾生たちは、仲間と協力し合って、自分の中に眠っている可能性を探すことから始めます。愚放塾の教育プログラムは、自分の中の本当にやりたいことが見つかる仕組みになっています。卒業する時には、誰もが自分の中に眠っていた本来の才能と結びつく仕事を見つけているはずですよ。

新たな環境とつながり、新たな仲間とつながり、新たな才能とつながり、新たな仕事とつながり、ひいては新たな未来とつながる……、次々と新しい扉が開かれていきます。そのような考え方が、「愚放塾」のコンセプト「つなぎなおし」の理論です。もちろん、「つなぎなおし」は卒業後も繰り返されます。「愚放塾」は塾生をサポートし続けます。

Q7. 何か技術を身につけられますか?

A7. あえて言うなら、「自分を活かす技術」です。

工業製品はたくさんの部品を組み立てて一つの製品ができますが、生命は違います。たった一つから、かけがえのない命が生まれます。人間にしましても、一つの受精卵が細胞分裂を繰り返し、それぞれの臓器ができ、赤ちゃんとして生まれてきます。「愚放塾」の教え方も、生命の仕組みをお手本にしています。先ほど自分のなかに眠っている才能=宝物を見つけるのが「愚放塾」の学びであると書きましたが、その宝物と固く結びつくことが、つぎからつぎへと自己の可能性の扉を開いていくのです。

高校の教員だったころ、卒業生から相談を受けたことがありました。その頃の彼はテレビ局のADをしていました。アシスタント・ディレクターといえば、聞こえはいいのですが、つまりは雑用係です。人のいい彼は、先輩諸氏からいつもなんだかんだと頼まれます。公私の別なく頼まれる、「パシリ屋」にほとほと嫌気がさして、「もう辞めたい」と言ってきました。私はこんなアドバイスをした覚えがあります。「それは君の特技だよ」と言うと、「…」もちろん、彼はキョトンとしています。「君は頼まれやすいという特技を持っているんだから、それを磨くことが君を生かすんじゃあないのかな」と説明を付け加えました。しばらくして、彼から連絡がありました。セールスマンに転職したと言います。彼は「頼まれやすいという特技=自分のなかの宝物」を生かして営業成績を上げているということでした。

個性を生かした仕事に就くこと、すなわち「天職につく」ことを目標とし、カリキュラムも組み立てられています。3ヶ月プログラムの最後の1ヶ月は、やりたいことをやりたいだけ、やりたいようにやります。各自が「ドリームストーリー」を演じる演劇の授業と自分の使命を見つける「ミッションワーク」によって、自分のやりたいことがはっきりしたら、最後の1か月は、とことん自分の才能を磨くトレーニングをします。「愚放塾」のネットワークを生かして、塾生のジョブトレーニングのサポートをします。

参考記事:
「人生の休日を『天分を開く』期間にしませんか?」
「生き方に迷っているあなたへ」

Q8. 農業にはどんな教育効果があるのでしょうか?

A8. 自然は人を傷つけません。農業の持つ包容力、それがなによりの教育効果です。

「愚放塾」の第2の柱に農業を入れた理由を説明しますね。それは、僕が農家育ちだということに大きくかかわっています。昭和32年生まれの僕は山梨の片田舎で自然に囲まれて育ちました。たしかに農作業が大変だということは子供心に感じていましたが、昭和30年代の田舎の農業は、現代の農業と違って、どこかのんびりしていて牧歌的な雰囲気がありました。田植えといえば近所総出で手伝い、稲刈りのときは子供も借り出されました。遊び半分の子供であろうとお構いなしです。力のある者もない者も、熟練者も初めての人も、どんな人にもできる仕事があるのが当時の農業でした。誰でも受け入れる農業の懐深さ、多様性がそこにはありました。しかも、農業には人を逞しく育て、そして優しく癒す力があります。

農業は決して人を傷つけません。私が育った田舎では、自然を脅威というより畏敬していたように感じられました。たとえ自然災害によって丹精込めた作物が一夜にしてふいになったとしても、自然は必ず蘇ります。それは、土の力でもあります。都会では、すでに土と触れ合う機会が失われています。人の土とのつながりは途絶えてしまいました。スーパーで売られている野菜を見ても、土の面影もないような状態ですから、野菜を食べても土とつながっていることすら忘れているでしょう。

土を耕し、土を掘り、土を盛ると、常に土と触れ合っているのが農業です。土から生まれ土に還るといわれるように、土と触れ合うことは、生命の源に立ち返らせてもくれます。作物を育て、収穫する喜びとあいまって、農業には現代社会が見失ってしまった、人間の原初的な教育力があるのです。また、昔の農業は村全体が協力し合って作物を育てました。田植え、稲刈りなど一家でまかないきれない作業は、近所同士で互いに助け合いました。働き盛りの人たちだけでなく、年寄りは年寄りの、子供は子供のできる範囲の仕事が割り当てられました。

そういった「結」の仕来りは、「生きる場」の具現化といってもいいでしょう。人々が助け合いながら各自がその持ち場で、個性や能力を発揮するというこの制度は、人間の本来の生き方を具現化した生活の知恵といってもいいと思います。農業には自然と人ばかりではなく、人と人を結びつける力があるのです。

参考記事:
「愚放塾の農業教育」

Q9.「つなぎなおし」とは、どのようなものですか?分かりやすく教えてください。

A9. 誰もが具え持っている本来の能力を引き出すための教育方法論です。

「つなぎなおし」とは、文字通り、いままでのつながりを断ち切り、新たな環境とつながり、新たな自分とつながり、新たな人とつながり、新たな行動とつながることです。いろいろな関係の配線をつなぎなおすことで、自分自身が一新し、再スタートを切り、いままで眠っていた自分の才能に目覚めることが可能になります。いままでの自分がそう簡単に変わるはずがないと思っている人も多いと思いますが、「つなぎなおし」はそんなに難しいものではありません。むしろ、簡単ではないでしょうか。ただ逃げればいいのです。とことん逃げればいいのです。現状から全力で逃げようと決断すること、それだけです。

えっ?と感じる人も多いと思いますので、そのことをもう少し考えてしていきましょう。もしみなさんが、現状に満足できず納得のいかない人生を送っているのなら、私はまず心に正直になることをお勧めします。「納得しないことは決してしない、嫌なことは決してしない」と心に決めるのです。「そんなの無理だよ、あんた、オレのいまの現実知っているの?」なんて声が聞こえてきそうですね。たしかに心に正直に生きることが難しいからこそ、皆さんの悩みも深いのでしょうね。

ところで、自分の納得しないことを我慢している自分を見たことがありますか。きっと冴えない顔が映っているはずですよ。自分の心に正直に生きたなら、心は必ず応えてくれるはずです。あなたの顔が生き生きとして明るく輝きだすに違いありません。もしあなたが自分を偽って生きているなら、自分を取り巻く環境から逃げることを考えてみてください。そして、そこから全力で「逃げる」決断を下してみてください。もちろん、決断の先には、いろいろと困難なハードルがあると思います。十分に分かっています。分かったうえでそう言っているのです。「嫌な現状から逃げる」と決断しただけで、あなたの中から生きる力が湧いてくるのを実感できるはずですよ。

「でもね……」と、躊躇する気持ちも分かります。たとえ現状から逃げ出すことを決め、新たな環境で生活しはじめたとしても、不安ですよね。新たな環境で生活することに心配の種は尽きないでしょうからね。ところが、その逃げた先が安心できる避難所であり、自分の可能性を開く修養の場であったなら、どうでしょう。じっくり自分と向かい合い、本来の自分のつながるための新たな環境だとしたら、どうですか。ですから、みなさんはそこへ逃げ込むだけでいいのです。「愚放塾」とはそういう場所です。

もし新たな環境に移住することができたなら、それだけで、みなさんはすでに逃げる前の皆さんではなくなっているはずですよ。みなさんのなかで、新たな環境に適応しようと「つなぎなおし」が起こっているからです。「つなぎなおし」によって、いままで活用されていなかった能力が働き始めているのです。みなさんにも新たな環境に期待と不安に胸躍らせた経験がありますよね。そのときのことを思い出してみてください。たとえば、旅先で見慣れない風景、はじめて出会う人々、馴染みのない風俗習慣に出会ったとき、はじめは戸惑いを感じますよね。でも、その戸惑いはしばらくすると消えてしまいます。

戸惑いの裏側で脳が感性や思考を総動員して、その環境に適応するように新たな心的回路が出来上がったからです。「つなぎなおし」が行われたのです。「つなぎなおし」とは、新たな経験に身を置くことで、潜在性が賦活し、自分の新たな可能性を開いてくれる働きのことなのです。みなさん、どうですか、生きづらい現状から逃げられますか。もっとも「逃げる」という言葉に抵抗感を持つ人もいるかもしれませんね。たしかに「逃げる」という言葉は聞こえが悪いですよ。しかしながら、ここで言っている「逃げる」ことは「逃げ回る」ことは違います。「逃げる」からには、全力でとことん逃げて、逃げ切らなければ、逃げたことになりません。中途半端に逃げたのではいずれ捕まってしまいますからね。とことん「逃げる」こと、例えて言うなら、それは進化の条件です。

生物界において、とことん逃げたものだけが進化を遂げてきました。海から陸へ、温かい方から寒い方へ、低いところから高いところへ。草食動物は肉食動物の捕食にならないために逃げます。ただし、ただ逃げ回っていたのでは、いずれ食べられてしまいます。もっとも、草食動物は食べられることを前提に数で勝負して種を保存してきたんですよね、これも生き残りの知恵ですね。でも、私たちは草食動物になったらいけません。たた一つの命を大切にして天敵から逃げ切って進化しなければなりません。具体例を挙げて説明してみますね。

たとえば、時代はジュラ紀、地上で逃げまわっていた小さな恐竜がいたとしましょう、このままでは絶滅の危機に瀕してしまいます。そこで、ある日、決心します。仲間と一緒にこの場から逃げ出す決心をしました。目指す場所は、決して敵が追って来られない高い樹の上。たしかに樹の上は高くて危険、眠るところを見つけるにも一苦労です。しかし、樹の上には、獰猛な敵から逃れ、闘わずして生活できる安心がある、生き延びるために新しい環境に住むことを彼らは選択しました。樹の上で生活は生易しいものではありません。樹の上で生活するためにはいままでのやり方が全く通じません。でも、かえっていままでのやり方が通じないという未知の体験が功を奏したのです。彼らは少しずつ振る舞いを変え、時間をかけて樹の上の生活に慣れていきました。そして、彼らの体は次第に変化していきました。新たな場所に適応するために生えた羽毛は、煌びやかな羽に伸長していきました。伸びたオスの羽は、樹上の生活に必要なツールだけではなく、異性の興味を惹く衣装の役割を果たすようになりました。天敵のいない樹の上の生活は、ゆとりと遊びを生み出し、生殖活動に美をもたらしました。そして、その羽は、やがて大空を飛翔する翼となり、さらに新たな生活の場を切り拓くことになったのです。どうです、逃げることは素晴らしいではありませんか!

「正しく逃げなきゃあ、鳥になれない」

人間の心においても同様なことが言えるのではないかと思うのです。現状が生きづらく精神的にも肉体的にも参ってどうにもならない人は、そこから「逃げる」に限ります。世間の価値観に自分を合わせて無理な努力を重ねるより、いっそのこと、そこから全力で逃げる方が進化の法則に合致します。自分の外部(周りの環境、人間関係等、自己を取り巻く諸々のこと)から逃げること、その嫌なことから全力で逃げて、逃げ切り、その環境から決別する、その決断によって、新たな境地にたどり着くのです。新たな環境にはそこに見合う新たな行動様式が生まれ、新たなマインドが形成され、そして新たな人生が創造されるのです。つまり、「つなぎなおし」は人生の「リスタート」を創造するのです。

「愚放塾」は、現代社会に生きづらさを感じているみなさんの「逃げ場」であり、「配線修理工場」なのです。「愚放塾」のモットーは「がんばらない、らくしない、ごまかさない」です。新たな環境で、演劇と農業、そのワークや作業を通して、自分と向かい合い、各自が仲間と支え合いながら、無理なく、さまざまな「つなぎなおし」を試み、自ら自分の素晴らしさを再発見し、本来の自分とつながり、天職を見つけるところなのです。「愚放塾」は、自分らしい生き方を発見・実現までサポートし続けます。

最後に脳科学研究の第一人者藤井直敬氏の著した「つながる脳」の文章を紹介しておきます。

新しい環境での行動は、最初はうまくできなくても学習によって徐々にそれを可能にしていきます。すなわち学習によって脳内部での作り込みが進行し、その新規環境に最適な処理方法を自分の内部に刻むことで実現されると考えられます。それは自転車に乗ることを覚えるような運動学習から、さらに政治の駆け引きのような戦略的な社会適応機能まで、私たちの生活のあらゆるところで、休むことなく起きているのです。一分前の僕と今の僕は、脳内部の神経回路の構造も、それによって表現されている経験や知識も明らかに異なっていますし、そこには安定したいつも同じという定常的な状態がないのです。

Q10.「つなぎなおし」の具体例はありますか?

A10. 私が私立高校の教員時代(当時37歳)に、受け持ったひとりの生徒の話をしましょう。

その高校は男女併学の超マンモス校でした。私は男子部に所属していましたが、男子高校は1学年20クラスを越えていました。少子化の現在では考えられませんね。また、有名進学校でもあり、授業は英系、理系科目に大別され、能力別クラス編成のレッスン制を採用していました。教科別に8段階レベルが設定され、定期考査ごとに上位と下位の10名ほどが入れ替わるシステムになっていました。私だったら、1か月も持たないでしょうね。入学してすぐに逃げ出していたかもしれません。教師だから何とかやってこられたものの、そこで目にしたのは、下剋上の凄まじいドラマでした。一番下のクラスから頂点に上り詰めて東大に現役合格した華々しい生徒がいるかと思えば、上位クラスから次第にクラスを落として意欲を失くし坂道を転げるように落ちていった生徒も多数いました。当たり前のことですが、うまく上昇気流に乗って天高く舞い上がる生徒と同じ数だけ、躓いて落ちこぼれていく生徒がいるのです。日の目を見ない彼らは「学力不振」という名で十把一絡げにされていました。

もちろん、私のクラスにも、学力不振という不名誉な称号を与えられた生徒が数名いました。その中の一人に、Yがいました。クラス担任は高校3年間変わりませんでしたから、クラスの生徒は一人一人がそれぞれに今なお記憶に刻まれています。3年間のYの変貌ぶりには驚くべきものがありました。入学当初の幼さと卒業していくときの立派な後ろ姿を比べるにつけ、いまこうして思い出しても、感慨深い気持ちにさせられます。彼こそ、まさしく「つなぎなおし」の格好のサンプルではないでしょうか。もっとも最初から印象深い生徒であったわけではありません。50人を超えるクラスの男子生徒の中に埋もれてあまり目立った存在でありませんでした。授業中は、興味のある話には目を輝かせてこちらに顔を向けるものの、すぐにあきて無駄話をはじめたり、下を向いてこっそりマンガ本を読んだりしていました。およそ意欲的に授業を受けているとは言い難い生徒で、教師側からみると、何を考えているか分からない、そんな生徒でした。

ある日、彼は何を思ったか、突然、私のところへ来て演劇部に入りたいと言い出したのです。彼の幼い雰囲気から演劇に興味を持つタイプではないと思っていましたから、演劇部を訪ねてきたときは意外でした。当時、演劇部はどちらかといえば、大人しく地味な生徒が多く、なかにはいじめられっこ、不登校の生徒も数人いました。ですから、この有名進学校のごく普通の生徒たちにとってはマイナスの意味で敷居が高かったように思います。ちなみに演劇といえば、目立ちたがり屋の独擅場と思っている人も多いと思いますが、実は「ネクラ」な俳優も多いという事はあまり知られていないようですね。彼は、演劇部に入っても、授業中のように落ち着きがなく集中して一つのことに地道に取り組むことができませんでした。とはいえ、演技が下手なのではありません。むしろ見た目には上手に映りました。しかし、その巧さがかえって彼本来の魅力を損ねているように思えました。

彼の演技は「自分」を表現することばかりに夢中で、他の生徒のよさを殺してしまっていました。彼には他の生徒の演技がまったく目に入っていないのです。他の生徒の演技を無視するその自己表現は、私の目には傲慢にさえ映りました。そこで、私は丁寧に理由を説明しました。相手の言葉をよく聞いて、その反応で演技をするよう、指示を出しました。相手の言葉を受け止めて、その反応で言葉や動きを返す。私は、それ以外の余計な動きをすべて禁じました。動きを規制すると、彼の演技はみるみる窮屈になっていきました。動きに不自由し、言葉回しにも苦労するようになっていきました。彼はうまくできないことに苛立ち、私に不満をぶつけてきました。私が彼の要求をいっさい受け付けずにいると、しまいに彼は教室のドアを乱暴に開けると、脱兎のごとく飛び出していきました。彼の担任でもあった私は、あえて彼を無視しました。

当時の私は、わけても演劇の指導においては、みずから気づかないかぎり教育効果はないと思っていましたから、後日、彼にフォローすることも、アドバイスすることもしませんでした。彼は相変わらず落ち着きのない生活態度で、授業中も無駄話をしては注意を受け、成績はさらに下がっていきました。ただ彼を注意深く観察すると、彼は自分を持て余しているようでした。まだ幼さの残る彼は目立ちたがり屋でみんなの注目を浴びたいのに、目立とうにも目立つ場所が与えられません。自己顕示欲が満たされない欲求不満に陥っていたようでした。彼は不甲斐ない自分を責めるよりも、「俺はこんなものではない」という自負心の方が強かったように見えました。自信はないけど、自信がある、こんな矛盾に引き裂かれて、彼は自分を持て余していたのではないでしょうか。私の目には、最初、彼がそんな風に映りました。

数か月が経ったころ、成績はどん尻まで落ち込み、彼のすさんだ学校生活はひどいものになっていました。どこの部に入っても長続きしません。授業中は居眠り、ときおり見せる目の輝きも失っていました。一言も声をかけてくれない担任を恨んだかもしれません。担任に見放されたと思ったかもしれません。行き場を失って家庭生活も荒れていました。折りしも、母親から電話があり、家庭訪問に行くことになりました。3人での面談は当然、彼の成績、彼の生活態度のことから始まりました。母親の嘆きは彼には右から左へ、どこ吹く風の態度。業を煮やした母親が「あなた、何を考えているの?」「いったい何がしたいというの?」としつこく尋ねても、彼は下を向いたまま、一向に答えようとはしません。母親がさらに言葉を足そうとするので、私はとっさにこう言いました。「演劇部、まだYは退部してないんだよ」と。彼はそんなことなどもうとっくの昔に忘れたとでもいうように、相変わらず黙っていました。

「演劇、もう一度やり直してみない?」

当時、彼は彼なりに決心して演劇部に入ってきたのだという思いを、私はずっと抱いていましたから、演劇を続けることを辛抱強く説得しました。「先生が演劇部でいつも口を酸っぱくして言っていることは、自分を大切にしなさいということ。それは仲間を押しのけて自分だけを大切することではないよ。この学校のシステムのように、他人を踏み台にして自分が上がっていくのとは違うんだ。劇づくりは、相手を認め、相手の良さを引き出すことから始まる。演劇は、俳優はもちろん、照明、音響、装置と、劇づくりにかかわるすべての仲間が、お互いに信頼し合うことができなかったら、何も始まらない。その信頼があるからこそ、互いに自分を出し合い、ありのままの自分をも肯定することができるようになるんだ。劇づくりは、仲間づくり、自分づくりなんだよ」と。ここまで話をすると、彼はようやく面を上げました。「10人いたら、自分以外の9人のことを思いやるようにする、それが劇づくりなんだよ、よく考えてみな、自分のことだけを思っても自分一人からしか思われないけれど、一人ひとりが自分以外の人のことを常に気にしているなら、全員が自分以外の9人から思われるだろっ!みんながお互いを支えながら、その支え合いの中で、自己の可能性を開く、これが演劇なんだ。だから、劇づくりは仲間づくり、自分づくりと言ったんだよ」。私はだいたいそんな風なことを彼に話したように覚えています。

後日、母親から学校に電話がありました。彼は母親に「自分のやりたいのは演劇だ」と言ったそうです。中学校からこの学校に在籍し、この学校のシステムの、ある意味、「犠牲者」だった彼にとって、「仲間」という言葉が彼の心に響いたのではないでしょうか。8段階の能力別クラス編成で格付けされ、その「モノサシ」だけで評価され、同級生を見る目にも、同級生からの目にも、いやがうえにもそのレッテルが貼りついていました。ホームルーム系の授業、すなわちホームルームクラスで行う授業は、現国、社会、体育、音楽、美術の5科目しかありませんでしたから、クラスメイトが一堂に会することは限られていました。能力別クラス編成授業のために、クラスの仲間は散り散りバラバラ、いわば離散状態です。ホームルームの機能といったら、朝夕の伝達機関にすぎませんでした。

競争原理で能力を伸ばすことを教育方針に据えたこの学校で、競争から弾き出された生徒たちは居場所もなく、彼らの心はずたずたに切り裂かれていたに違いありません。彼が私に「演劇をもう一度やりたい」といってきたのは家庭訪問から1ヶ月ほどたった頃でした。そのとき、彼は何も言いませんでしたが、競争に疲れ、ささくれ立った彼の心は「仲間」を渇仰していたに間違いありません。彼は、演劇部に居場所を求めたのだと思いました。彼が演劇部に溶け込むのに時間はかかりませんでした。演劇部の仲間が彼をすんなり受け入れてくれたのはもちろんでしたが、彼の変化は目を見張るものがありました。以前の「ウケ」を狙って皆の気を引くような、そして、独りよがりな言動とは明らかに違っていました。

演劇部に入って、Yは知らずのうちに成長していったようにも感じられました。演劇部という新しい環境に身を置くことによって、マインドが変わり、言動にも変化が起こり、次第に自己変容していったのです。場の空気を読んで道化じみたことを言ったと思えば、話し合いの時はみんなの意見を引き出すファシリテーター的な役割を演じ、つねに周りのことを気遣っていました。そんなYを見て、私は安心しました。

当時はよくこんな稽古をしていました。まずみんなで輪になります。輪の中心にある生徒が入ります。そして、手を上下させるとか、単調な動きを繰り返すように指示します。そして、誰でもかまいませんが、次の生徒が別の単調な動きをしながら、その輪の中に入っていきます。先に輪の中心にいる生徒のリズムに絡んで、二人のリズムをつくっていきます。リズムが同調したら、同じようにしてもう一人がその二人の中に絡んでいきます。さらに一人とつぎつぎに加わっていきます。最後の一人が加わると全員参加のリズム機械が出来上がります、そういった稽古です。つぎは、その応用編を紹介しましょう。それぞれが短めの言葉を用意して、その言葉を言いながら、上と同じことをするのです。すると今度は、言葉と身体運動が乱舞するようなリズム機械が出来上がります。同種のゲームをいくつかしたのち、最後の仕上げとして、言葉を使ってのシンフォニーを立ち上げる稽古をします。
みんなが自由に動き回るなかで、ある生徒が言葉を奏でて「ゲーム」の始まりとします。この言葉は、いわばオーケストラの指揮者がタクトを振り下ろす合図です。それを機に、各自が次々にタイミングを見計らってランダムに自分の言葉を加えていきます。ただセリフを言うのではなく、リズミカルにメロディアスに、音程を変え、速さを変え、長さを変え、間隔を置いたりして、さながらオーケストラの各パーツのように、各自が即興でシンフォニーを構成していくのです。この稽古は簡単そうに見えて、かなり高度です。

各自が自分の感性でいろいろ調子を変えながら歌うように言葉を発声していくのですが、そのとき、周りの一人ひとりを感じながら全体の流れを読む能力がそれぞれに要求されるのです。気ままに発せられたセリフの集まりをシンフォニーにまで高めるには、相手の動きや発声に触発され調子を合わせながら、全体のリズムの流れを作っていかなければならないからです。転調や移調のような変化が自然に生まれ、低音部の高鳴りが頂点に達して止むと美しい高音部が潮の満ちてくるように響いてきます。こんな高等技術を期せずしてやりおおせてしまったのは、とりもなおさず、各自の心が一つに結びついているからにほかなりません。

みんなが分かち合うそのリズムの力によって、みんなが一緒になる。一緒になるといっても、行進のように、みんなが同じ動きをするのではなく、いろんな方向に弾みながらも、リズムに合っているという一致の仕方です。それぞれは自由でありながら、全体としてまとまっているのです。劇づくりがそのまま仲間づくり、自分づくりと一致するとは、結局、こういうことを言うのです。

それぞれが自由にありのままにふるまいながら、互いに支え合って調和している、それが究極の演劇なのです。Yは演劇部の稽古に参加していくうちに、目立ちたがり屋という自尊感情を上手に脱ぎ捨てていきました。当時、私がYを見て思ったことは、人目を気にして脱ぎ捨てることができなかった自尊感情も他人がいるからこそ、はじめて取り去ることができるということです。互いが、相手に合わせながら支え合い、全体に調和しようとする、その心や動きが自分の殻を破り、ありのままにふるまうことを可能にするのですね。「ありのままの自分」を育てるとは、実のところ、演劇のこんな稽古が有効なのではないでしょうか。

演劇部は9月の文化祭に向けて『赤い鳥の居る風景』という別役実の戯曲を選びました。盲目の少女が主人公のこの戯曲は、別役実独特の不思議な世界を描いています。詳細な内容は省略しますが、当時、生徒たちは、日常の中にぽっかり空いた危うい闇に吸い込まれるように、別役実の世界に迷い込んでいきました。キャストやスタッフが決まり、劇づくりの体制が整うと、生徒たちは、寸暇を惜しんでこの作品の解釈に明け暮れていました。朝の9時から夕方7時ごろまで練習に熱中した夏休み、その中身の濃い稽古を通して生徒たちはそれぞれにかけがえのないものを身に着けていきました。Yは「旅行者」にキャスティングされました。別役の配役の特徴ですが、登場人物には、名前が記されていません。「旅行者」としか書かれていないこの人物は、この劇の中でもとりわけ謎めいて不思議な魅力をたたえていました。しかも、盲目の少女に少なからず影響を与える貴重な役柄でした。とりわけ、Yはその劇中世界にはまり込んでいきました。

約3ヶ月の稽古期間を通じて上演まで、彼は、旅行者という配役にとどまらず、劇の深奥にまで分け入り、劇と一体化したといっても過言でありません。若く純真な心が演劇という魔物と格闘し、激しく共振していたのではないでしょうか?
虚構の世界を現実さながらの臨場感で生き抜いた結果、現実の世界において劇的な「つなぎなおし」が生じました。その劇的な「つなぎなおし」の結果をこれから紹介したいと思います。文化祭が終わると、この学校の2年生は本格的に受験体制に入ります。10月のとある日の進路相談の時、彼は伏せ目がちにこう言いました。

「僕、教育学部を受験したいんです…障害者教育…」

私は頷くと、それ以上は聞きませんでした。案の定、私は確認する必要もなかったのです。それ以来、彼の勉強ぶりは凄まじいものがありました。「目の色が変わるとは、こういうものか!」と、授業中の彼を見てそう思ったものでした。教師の言葉を一言も逃さないかのように真剣なまなざしで聞き、すばやくノートを取ります。以前のような無駄口や居眠りはすっかり姿を消し、そのかわりに彼は階段を一気に駆け上がるように階級を上げていきました。最下位のレッスンから瞬く間に上位レッスンに昇り、母親もその豹変に驚き、私に電話をかけてきました。帰宅しても食事や風呂以外は部屋にこもったまま出てこないといいます。彼の勉強量は桁外れに増えて、冬休みや夏休みの休業中も、図書館に行く間を惜しんで自宅に籠り切りです。

彼は熱に浮かされたかのように来る日も来る日もひたすら机に向かいました。1年後、驚くことに彼は1000人のごぼう抜きを達成し、さらに上の順位を伺おうとする勢いでした。進路面談時、「すごいな、もう東大も射程距離に入ったぞ、東大受けるか」と私が冗談を言うと、彼はニコリともせずに「学芸大を受けます」と言ったきり、その面談は終わりました。ものの5分もかかりませんでした。あの演劇体験から彼は別人になりました。彼の決意が変わるははずもありません。以来私は、この世に生まれてきたからにはそれぞれに果たすべき使命があるのではないかと思うようになりました。

その使命と結びついたエネルギーの凄まじさはYの変貌ぶりを見ればわかりますよね。それから、私自身も……、それから十数年後の癌体験によって自らの使命を自覚するに至ったのでした。彼は、予定通り学芸大の障害児教育学科に合格し、いまは障害者とともに充実した人生を歩んでいます。「つなぎなおし」とは、心のシミを取り去り、自分がこの世に生を受けた意味を見つけ、その使命とつながること、別の言葉で言い直しますと、成長する過程でたくさんまとった情報の衣を脱ぎ去り、生まれ持った遺伝子情報と直につながることなのです。

塾長、体験を語る

Q11. 人前で演じるなんてとてもできない性格でも大丈夫ですか?

A11. 私もそうでしたから、大丈夫ですよ!若いころの私、ホントにひどかった。

なんせ私ときたら、人前で演じるどころか、人前に出ることすら怖かったものですから…いまでこそおしゃべりですが、小さいころの私は無口で、一人遊びの好きな少年でした。男らしく育ってほしいという母の願いをことごとく裏切り続けました(笑)

こう切り出した以上、思い切って私のことを話しますね。恥ずかしい記憶なので、あまり話したくはないのですが……小学生ぐらいになると、母にはぼんやりしていた当時の私が不安だったのでしょう。折り合いの悪かった祖母の手前があったのかもしれませんが、私に、人並みという世間のモノサシをいつも当てて、近所の元気のいい同級生と比較しました。当時の私は、母の期待に応えようと思いながらも、いくら頑張っても母の意に沿えない自分にダメという烙印を押していました。幼いながらも私はまったく自分が信用できませんでした。自信のない私は自分を肯定できない、弱々しい人間に育っていきました。

そんな私ですから当然、人前に出るのが大の苦手でした。授業中も自ら発言はしません。みんなに注目されるのが恥ずかしくてたまらなかったのです。この内向的な性格に輪をかけるように不安な日々を送ったのは小学校5年生のときでした。担任がスパルタ式で厳しいと評判の男の先生になったからです。教科書や教材を忘れれば、その授業時間中は、「前にならえ」の格好で両手を前に突き出して拳を作り、しかも目をつむって立っていなければなりませんでした。先生から大目玉を食らったときには、水を張ったバケツを両手に提げて廊下に立たなければなりません。体育着を忘れたものなら、パンツひとつにされて裸の見学です。生徒はスパルタ主義で良くなると信じて疑わない教師。なるほど、このクラスの生徒はみな良い子に育ちました、もちろん、表向きだけだとは思いますが…

決定的な出来事はある日の授業で起りました。突然、先生から指名されて、私はうろたえるように立ち上がりました。体を揺すりながらしどろもどろで質問に答えていますと、先生が、「体を揺すらないで言え、おまえはコンニャクか」と私に言います。みんなに笑われて体の動きを止めようとすれば、ますます体はくねくねと捩れるように動いてしまうのです。そこで、その先生は何を思ったか、今思い出しても恥ずかしさで冷や汗が出ます。クラスメイトのからかい半分の視線を一心に受け、いたたまれない気持ちでいる私を絶壁から突き落とすような、とんでもないことを先生は言い放ちました。

その先生は、周りの男子生徒たちに向かって、私が体を揺すらないように押さえつけろと命じたのです。号令に男子生徒は兵隊のように反応し、わっと寄ってたかって私の動きを止めました。私は屈辱と恥ずかしさで真っ赤になって、何も言えず、その悔しさをどこにもぶつけることもできずに、とてつもなく長い数分間を、なすがままにされていました。次の日から私に「コンニャク」というあだ名がついたのは言うまでもありません。このときの心の傷はずいぶん長く尾を引きました。

以来、私にとって人前に出ることは不安を通り越して拷問になりました。人前に出ると、体が知らず知らずに動いてあの恥ずかしい記憶を呼び起こします。体も、頭も、ほとんどパニックのような状態になってしまうのです。
私の「人前恐怖症」は成長するにつれ、ますます度合を強め、教師になってから一層苦しむようになりました。生徒の前で勝手に動いてしまう、コンニャク体、生徒から「先生、ビョーキ?どこか悪いの?」と笑われ、恥ずかしさで真っ赤に火照る顔、逃げだすこともできずに、生徒はざわつき、統制のとれない教室でしどろもどろの授業を繰り返す、ダメ教師。それが当時の私でした。

いっそ教師を辞めてしまおうかと何度思ったことかしれません。しかし、まったく自信のない、臆病な私に教師を辞めることなどできないのは言うまでもありません。もっとも辞めたところで事がうまく運ぶはずもありませんでした。ところが、幸運にも、逃げ口は別のところから転がり込んできました。竹内敏晴著「言葉がひらかれるとき」という本との出会いでした。その本と出会ったことが、私の人生を変えたといっても過言ではありません。

本の中で書かれている演劇の話は、暗闇で逃げ惑う私に「演劇」という非常口を灯してくれました。それまでの私にとって演劇とは、私の住んでいるところとは別の世界の物語です。はるか遠くの異人種が舞台の上で何やらやっている芸術でした。本には、青年期まで耳が聞こえなかった著者が、手術によって聴力を取り戻し、その閉ざされた世界から出て、「こえ」と「ことば」が世界を通して「からだ」に浸透してくる過程が克明に描かれていました。言葉が聞こえるようになったことで、新たな自分が切り出され、他者との関係が再編され構築される、その仲介役として演劇が魅力的に語られていました。この本は僕を演劇という魅惑の世界に引き寄せてくれた、衝撃的な一冊、まさに事件と言ってもいい出来事だったと思います。時をおかずに僕の腹は決まりました。

この本で小さな出口を見つけた私は無理やり自分を元気づけて、自分の一番苦手なこと、自ら人目に自分をさらすことをあえてしてみたくなりました。演劇をやろうと決心しました。教師を辞める代わりに劇団の門を叩きました。今思えば、それこそが現状打破のために全力で逃げることだったのです。はたして演劇は私の期待を裏切りませんでした。演劇の稽古は、たんに人前に立って上手に演技するための訓練ではありませんでした。そうではなく、自分を飾り繕った薄皮を一枚一枚丹念にはぎ取っていく作業だったのです。

たしかに演技とはいろんな役柄を演じることなのですが、しかし、その人ならではの持ち味がなければその演技は、たとえ上手に演じたとしても、誰がやっても変わりばえのしない、つまらない演技になってしまいます。演技の本質は、本来の自分と出会い、あるがまま自分を肯定すること。手間はかかります。稽古をしたところで、すぐに役立つわけではありません。その時間のかかる稽古こそが個性的で味のある演技を生み出す秘訣なのです。いわば、未開の荒野を鍬一本で掘り起こしていく作業に当たるのです。

しかしながら、文字通りの荒野であってはいけません。たとえ裸になったとしても生きられる文化的な場所がなければなりません。あるがままの自分をさらすことのできる安全な場がなければなりません。それが稽古場です。稽古場とは本来、互いにあるがままの自分をさらし合い、互いにあるがままの自分を認め合う、あたたかい視線の飛び交う場所なのです。仲間たちから、自分が承認され、そして自らも仲間ひとりひとりの個性を認めるような関係が構築できれば、もう「シメタ」ものです。

誰もが荒野を鍬一本で開拓する自信が出てくるのです。私の「人前恐怖症」は徐々に影を潜め、それと入れ替わるように本来の自分が表舞台に出てきました。とはいえ、私が人前に立ってもくねくね体が動かなくようになるまで、長い年月を要しました。正確に言いますと、いまだに後遺症は残って完治したとは言えません。もっとも、いまでは、その動きも自分のかけがえのない個性として大切にしています。

Q12. どんな人に「愚放塾」に来てほしいですか?

A12. 現状に満足できず、いまの生き方に不安を抱えている人に、来てほしいですね。

なぜなら、たしかに不満があり、不安があるということは、苦しく辛いことにはちがいないのですが、その感情の裏側を覗いてみますと、現状を何とかしたいというエネルギーが渦巻いているはずだからです!不満や不安は、生きるうえでのジェット・エンジンだとは思いませんか?私はそう確信しています。決して大げさに言っているのではありません。まあ、こんな風に自信たっぷりにこう言っている自分をどこかで笑っている私もいますが……「よく抜けぬけとこんなこと言えるなあ、恥ずかしくはないのか!」ってね。自分自身からそう「ツッコミ」を入れられるのも分からなくもありません。なるほど私は、成人なってからも、教員になってからも、まったく自信がなく、まったく自分を信用することができない人間でしたらね。その辺のことは、すでに書きましたね(Q5)

演劇に逃げ込んで、「わが意を得た、まさに人生、救われた」という話でしたね。今度は別の切り口から、私の「逃げっぷりのよさ」をお話しさせてください。繰り返しますが、私は小さい頃から、いつもびくびくおどおどしていました。いつまでたっても母親のそばから離れられない、ひ弱なマザコン少年でした。子供なら元気に遊んで夜は疲れ切って無邪気に眠るのに、私ときたら家に一日中籠っていて母親から離れられない、だから、夜は目が冴えて眠れません。
それだけではありません。眠って次の朝目覚めなかったらどうしようなんて考えて、不安になってますます眠れない神経質な子供でした。

まだありますよ。熱にうなされると、おなじ夢を繰り返し見ました。穴の中をもぐる夢。暗い穴をひたすら這ってもぐる。まったく見えない出口。突然、目の前に見慣れた風景が開け、ほっとしたのも束の間、広大な花畑に私はたった一人立っている。すると、真っ青な空が落ちてきて、汗ぐっしょりになって目を覚まします。布団の中で私は、何か冷え冷えとした感情に包まれていました。漠とした命への不信、自分が消えてしまうことの不安、小さな頭で考えて、漠然とした死の恐怖に怯えていました。

こんな私ですから、翌日ここ一番を発揮しなければならないようなときには一睡もできませんでした。闘う前からすでに闘いに敗れていました。へとへとの体で、その朝、家を出て結果はいつも無残なものでした。むろん、枕が替わっただけでもう眠れません。修学旅行では屈託のない寝息やいびきのなか、ひとりぼっちの孤独を痛いほど味わいました。高校のとき、勝手に動いている心臓がいつ止まってもおかしくないと、ふと思い始めたときから、心臓が止まるのが恐くて……何かの拍子にそう思うと、脈が速くなって、血の気が引いて、体がふるえて……ほんとに心臓が止まるような状態になってしまうのです。「不安神経症」、そう医者には言われました。

考えたところでしょうがないことを私は考え込んでしまうのです。考えても仕方ないことと分っているのですが、そう考えるとかえってそのことが意識から離れなくて、誰でもできる当たり前のことができなくなってしまうのです。眠ろうとすればするほど目が冴えてしまい、心臓が止まったらどうしようと思うやいなや、鼓動が乱れ打ち、どうしようもなくなってしまったのです。こうなろう、ああしようと思っても、いつも反対のことが起きてしまう、あたかも呪われた運命のように。

「人前恐怖症」、これは自分で名づけた病名ですが、人に見られていると思うと、体の自然な動きができなくなってしまいます。運悪く人前に出る羽目になったものなら、恥ずかしさのあまり身がすくんで、体がいうことを聞いてくれません。人目を意識すればするほど、体がくねくね動いて、言葉も出てきません。顔が真っ赤になるのを抑えようとすればするほど、顔面は火のように熱くなります。人の視線が私の羞恥心を串刺しにして、人前でいつも「さらし者」になりました。私は、この意識と折り合いをつけようと、たくさんの心理学の本を読みました。自律訓練法をしました。呼吸法を習っても……八方手を尽くしても、全く役に立ちませんでした。相変わらず、人前では他人の視線に射すくめられ、踏ん張りどころでは萎えて力が入らず、場違いなところで羽目をはずしました。

アクセルを踏み込みながら片方でブレーキを踏んでいる、しかも、前に進むために意識すまいとすればするほどブレーキから足を離すこともできなくなる、自分自身が私の行く手を阻んでいるのです。こんなダメ人間ではどうしようもない、このままでは人生を生き抜けない……いや、そんな立派な考えではなく、「ともかく今の自分を何とかしなくっては!」と、苦肉の策を思いつきました。

「そうだ!北海道へ、逃げ出そう」

大学3年のときでした、10万円を懐に北海道を野宿しながらヒッチハイクで一周する計画を立てました。はじめはたんなる思いつき、いや、そうではありません。やむにやまれずの切羽詰まった、北海道への逃避行でした。神経質、小心、自信のない自分をなんとかしたいという、やみがたい現実逃避は、次第に希望へと変わり、期待を帯びてとうとう息巻いた決意に変えてしまいました。いま思えばたかが知れたお遊びかもしれません。しかし、私にとっては思いどおりにならない自分にぶつけた挑戦状でした。枕が変われば一睡もできなかった私、ひ弱な私が野宿すること、それは当時の私にとって答えがあるとは思えない難問への挑戦でした。

とにかく野宿しながら北海道を一周すれば何かが変わる、不安の極みのなか、どんなことがあっても途中でやめない、もしやめるようなことがあったら、私の人生、それでおしまいだ、そう心に決めた途端……決行する前にやめようかとも思い悩みました。しかし、不安にさいなまれながらも、逃避行の未知なる夢が私に憑りついて、どうしようもなく、わくわく胸が高鳴るのを抑えることができませんでした。果たして決行!寝袋ひとつで、駅の軒下で寝てみた、公園で寝てみた、河原で寝てみた、もちろん、ほとんど眠ることができませんでした。ヒッチハイクするのも怖さが先だってなかなかできません。意を決して手を上げても車もなかなか止まってくれません。毎日へとへとになって歩きました。なんだかんだで、5,6日かけて、札幌からやっとのことで十勝までたどり着きましたが、心身がくたびれ果てて、ぼろ雑巾のよう、心は萎えて体も言うことを聞きません。もうだめかとあきらめました。

「とにかく駅まで行って、列車に乗ろう。そして帰ろう、もう限界だ!」

もう夕暮れでした。足を引き摺るようにして林の中をさまよい歩いきました。今何時だろう?人影もなく、車も通らない、歩き続けても、駅にすら辿り着けないかもしれない、静かな牧場が見える、月が木々の枝葉の隙間に覗いた、木立のなかに草むらがあった、今晩はここで野宿……期限があるわけじゃない……金がなくなったら帰ろう、ふとして、気持ちが楽になりした。疲れ果ててそのまま倒れこむように横になりました。そこで眠りました。記念すべき人生で初めての野宿でした。

次の日から疲れると道端の草むらに寝転んでいつまでも休んだり、昼下がりの木陰でうとうと眠ったりしました。どうにでもなれという心境でした。開き直った途端、不思議なもので、寝転んでいても車が止まってくれました。北海道を一周するあいだ、何十台という車に乗せてもらい、見ず知らずの人にほんとうにお世話になりました。見知らぬ人と話す会話は新鮮で、そのすべてが私の人生の滋養となりました。もっとも、その後が万事順調に運んだわけではありません。まさに紆余曲折だらけの珍道中だったように思います。

とてつもなく長い、たった20日間の旅でした。北海道の広大な自然と、旅先で出会った暖かい人達のおかげで、決死の覚悟で臨んだ旅が、いつのまにか楽しくて屈託のない旅の日々に変わっていきました。最後にはどこでも眠れるようになりました。大げさなようですが、人間、ちょっとやそこらでは死なないものだと、そのときは思ったものです。北海道への逃避行は、私にある考えをもたらしてくれました。

思い通りにならない自分は「思い通りにしないで!」という私の心の叫び、「ひとつに括ってほしくないのよ、ありのままの私を認めて!!」という「私」の「私」へ向けての苛立ち、なのだと思えるようになりました。同時に「やれば、できるんだ!」という自信が生まれました。自分を何とかしようとすれば、何とかなるんだ、と思えるようになったのです。もっとも、50半ばを過ぎた、いまだからこそ、そう簡単に言えるのですよね。たかだか北海道一周したことで、一気に悩みが解決したわけではありません。もちろんそうです。そう簡単にいくわけはありません。

30数年経った「いま」でも、不眠症がまったく解消されたわけではありません。いまでも睡眠薬のお世話になっています。それでは何が変わったのでしょうか?ひとつだけ確信を持って言えることがあります。この旅行で、本来の自分、ありのままの自分とつながったということです。自分という存在を丸ごと引き受けられるようになったことだと思います。思い通りにならない現実に不満や不安を抱いている、だったら、現実に背を向けて逃げてみよう、しかも渾身の力で、今いる場所から全力で逃げるだけでもいい、あの北海道旅行のように私はこの年になっても、ヒッチハイクで野宿の旅を楽しんでいます。もちろん、実際にヒッチハイクをして野宿しているのではありません。出会いを楽しみながら、心の赴くまま、ワクワクする方へ全力で逃げる、ヒッチハイクと野宿で得たスピリットを忘れずに日々を生きているということです。なるほど、私は嫌なことから徹底して逃げてきました。その結果、大金持ちにも有名人にもなりませんでしたが、楽しみながら人生を送ってきたことには間違いありません。

当然、挫折も何度もありましたよ。でも、そのときどきの自分のあり方に正直に生きてきました。自分の心に嘘はつかないように生きてきました。答えは自分の中にすべて用意されていたのですね。ありのままの自分が指し示す方向へ何度も急展開をしながら波から波への波乗り人生、これからもおそらくそうでしょうね。みなさん、不満や不安を大切にしてください!不満や不安は新しいページをめくるエネルギーです。新たな境地に逃げ込む大きな力です。

自信がない、希望がない、コンプレックスがある、社会に馴染めない、居心地が悪い、そういったネガティブな感情を日ごろから抱いている人。こんな人たちを「愚放塾」は大歓迎します。ネガティブな感情に苛まれている人はある意味、選ばれた人たちです。なぜなら、現状を突破する逃走力が宿っているのですからね。自分を何とかしたいという思いで、現状から逃げて逃げまくって、とことん逃げて別世界に足を踏み入れてください。不安のなか、夢中で逃げまくってください。気がついたときにはもう、本来の素晴らしい自分になっていますよ。意を決して心に正直に生きてみましょう。ありのままの自分の指図にしたがって、好きなことをやり続けましょう。正しく逃げて、「愚放塾」で本来の自分を羽ばたかせませんか?

Q13. 先生をしていた時に、なにか思い出があったら教えて下さい。

A13. いい思い出も悪い思い出もたくさんありますので、いくつかお話ししますね。

ただ、その前に「人前恐怖症」だった私が、どうして教師なんかになってしまったのだろうとみなさんは不思議に思っているでしょう。自分でも「弾み」でなってしまったとしか思えないですが、その「弾み」っていうのが、私にとっては、なんとも切ない、身を切り刻まれるような辛い思い出なのです。よかったら、そのあたりの話も聞いていただけませんか?

大学3年の時の北海道旅行の成功に気分を良くした私は、4年生になっても、就職活動にあくせくしている友達や心配する家族を尻目にかけて、お気楽な極楽トンボのように振る舞っていました。後から思えば、大きな楽曲の序章に足を踏み入れたばかりなのに、本来の自分と向き合い続けることを怠って、いい気になっていました。大学を卒業しても就職なんかしないで、日本中をバイトでもしながら気ままに旅して、その土地々々の空気や人情に触れ、もし気に入った場所があれば、そこに住み着いてしばらく働くのもいいかな……北海道旅行で少し自信のついた私は、こんな夢を見るようになっていました。もちろん、フリーターなどという言葉のなかった頃の話です。たしかに夢をもつのは当時に私にとってはいいことだったのでしょうが……

実のところを申しますと、その時の私は、深い考えもなく親の言いなりになって地元の大学の教育学部に入ってしまったことを後悔していたのです。教師になることに全く自信がありませんでした。4年生になって、先生という職業からまさに敵前逃亡しようとしていたのだと思います。こういう逃亡は、間違った逃げ方です。本来の自分を蔑ろにする現実逃避だからです。その理由については、おいおい話していきます。この逃げ方がなぜダメなのか、みなさんも考えてみてください。閑話休題、そんな私に神様はとてつもなく熱いお灸をすえたのでした。私のもとへ、大きな試練が舞い込んできました。それは母の病気でした。

そのとき母は末期の癌に冒され、すでに余命3ヶ月の体になっていました。当時はまだ本人に告知するという習慣がなかったので、母には内緒でその宣告は身内のものだけに知らされました。父をはじめとして家族は、いきなり暗い穴ぐらに放り込まれたような、沈痛な日々を余儀なくされました。とりわけ私の動揺といったらありませんでした。私にとって近い将来、母親のいない日が訪れることなど想像だにできません。母を精神的に頼り切っていた私は、もとより母なしに生きてはいけないほど弱い人間でした。毎日が悲しみで曇り、おろおろするだけで何も手につかず、まさに目の前の世界がその根底からガラガラと崩れていくようでした。深い沼底で悲嘆に暮れていながらも、いつまでも悲しんでいる猶予を神様は与えてくれませんでした。母の病状を考えると、いつまでも落ち込んでいる時間などありませんでした。

私はよろけながらも、決心しました。その日から私は教師になるため、後さき考えずに、やみくも勉強しました。まだ間に合う教員採用試験に受かること、それは私の行く末を案じていた母に対するせめてもの親孝行、いままで苦労かけっぱなしで何ひとつ親孝行してこなかった私の罪滅ぼしなのでした。そんな訳で私は教師になったのです。たしかに私は教師になりたくてなった訳ではありません。たしかに母の命と引き換えの「弾み」でしかありません。ですが、人生に何ものにも代え難い貴重な時間があるとすれば、死に逝く母のために費やした時間は、なるほど、なにものにも替え難い時間です。その時間が私に教師という道を開いてくれました。しかし、私は、教師になると決まってからも、心の隅では大いに戸惑っていました。幸いなことに、母はそれから二年ほど生きました。教師になって働く姿を母に見せることができました。最後の別れの日、安堵したように安らかに眠る母を前に、涙の枯れ果てるほど泣いた私は、しかし、母のいない日々をどう生きればいいのか、途方に暮れるばかりでした。

当時、私は故郷山梨の田舎の中学校の教員をしていました。表向きは元気に「センセイ」を演っていましたが、内面はいつも波立っていました。人前に出ることが恥ずかしいこの先生、若くハツラツそうに振る舞っても、いつそのメッキが剥げ落ちるか、いつも脅えていました。私の不安をよそに、すぐにその日はやってきました。当時体育の授業を持たされて、全校生徒の前で「ラジオ体操」の模範をさせられる羽目になってしまいました。ご多分に漏れず、手足がまったくいうことを聞かず、大恥をかき、大爆笑の中で、一気にメッキが大崩落、この日を境に、若い「ハッタリ教師」は、生徒からなめられる「ダメ教師」と烙印を押されました。この笑うに笑えない経験が教師なりたての私の心にどんな影響をもたらしたか、ここまで読んでくださった皆さんはお分かりのことと思います。

傍目には「教師になってよかったね」と映ったかもしれませんが、少しもうれしくありませんでした。そのうえ、マザコンの私は、母がいなくなって、すべてを失ったような喪失感、強い不安が周期的に襲って来て、出口の見えない日々を送っていました。何の目標も見出せないでいました。ここで話がひと巡りしてしましたね(そのあたりの事情はQ5をお読みください)。

先にお話しした通り、私は清水の舞台から飛び降りるような心境で地元の劇団の門を叩いたのですが、劇団に行き始めて、稽古で自分の繕った衣を剥がされていくことで、徐々に私は変化していきました。端的に現われたのは、いい意味で開き直れたことでした。「ダメ教師」から逃げるには「ダメ教師」のダメさ加減を最大限に発揮するしかありません。生徒からさっぱり頼りにされない代わりに、生徒と一緒に遊んでしまえ、そう思うと気が楽になりました。1クラス20人程度で学年2クラス、全校生徒が100人くらいの小さな中学校に勤務していましたから、私にとってなによりラッキーだったのは、全く教師として機能しない、この若い「ダメ教師」を周りの先生たちが大目に見てくれたことでした。見栄もハッタリも捨てて、ありのままの自分を隠さず、すすんで生徒になめられました。ろくに生活指導もできない「ダメ教師」でしたが、生徒からなめられる代わりに生徒と同じ目線で生徒とともに「学ぶ」ことを学びました。

私の変化に応えるように、田舎の素朴な生徒たちは、私を年の離れた兄貴、いや、友達同然に「タメ口」をきいて慕ってくれました。教員住宅に一人暮らしをして暇を持て余していた私は、日曜日ごとにクラスの生徒を学校に呼んでは遊んでいました。富士山のふもとの河口湖のほとりの小さな学校での生活は思い出すのも楽しい日々に変わっていました。夏休みのある暑い日、表向きは富士山清掃と銘打って、コーラ瓶を拾い集めたことなど今も記憶に新しい愉快な思いです。当時のコーラはガラス製で、ホームサイズ瓶は30円で引き取ってくれたことに私は目を付けました。生徒を総動員させ、換金してその資金を元手に私の家で豪勢なパーティーを開く「富士山清掃計画」を企んだのです。4リットルのごみ袋をもって学校に集まってきた生徒たちの不思議そうな顔を見ながら、「いまから富士山清掃に行くぞ!」といたずらっぽく言うと、生徒たちはなんだかんだと文句を言いながらも、満面に笑みを浮かべています。すでに私は生徒たちにどっぷり浸っていましたから、彼らもまたアホなセンセイが何か企んでいるなぐらいの軽い気持ちで面白がっていたのだと思います。

でも、結果は大失敗!目標は一人10本。そうすれば、10本×30円で一人300円の稼ぎ、男子生徒が10人で総額3,000円のもくろみは、まんまと外れました。手にしたお金は500円にも足りません。生徒たちはコーラのホームサイズ瓶がなかなか見つからないと分かると、すぐさま方向転換、それが最大の敗因だったのです。私の制止を振り切って、換金できそうな、ありとあらゆる瓶を探し始めました。ビール瓶に一升瓶まで拾いましたが、結局、私と生徒たちが炎天下のなか、上半身裸になって稼いだお金は、みんなで銭湯に入って汗を流すとすっかり消えてなくなりました。その晩は、私の家でささやかなカレーパーティー。大騒ぎして、みんなでざこ寝、まあ、男子生徒は屈託がなく、ほんとにかわいいものでした。教師になってから3年ほど経つと、もう私は教師になったことを後悔するどころか、教員生活が楽しくてしかたありませんでした。

手を変え、品を変え、生徒たちと体ごとぶつかり合いました。文字通りのスキンシップです。もちろん男子生徒にですよ!肝心なのはまだ生徒の体が大きくなる前のスキンシップ、こちらの方が体力で圧倒的に勝っている中学1年ぐらいの時に、体を張って遊ぶことが肝要です。休み時間になると、自ら進んで男子生徒の輪の中に入ていき、じゃれあうようにして遊ぶのです。相撲をしたり、プロレスごっこをしたり、無邪気な男子生徒たちは次から次へと私にかかってきては、投げ飛ばされて懲りもせず、うれしそうにまた向かってきます。体と体がじかに触れ合うことで教師と生徒の心がつながる、もちろんそうです。でもね、狙いはそれだけではありませんよ。少しばかり調子に乗っていた私はもう少し先を見据えていたのです。

この生徒たち、中学の3年生ともなると、あんなに小さかった体がみるみる大きくなって、なかには見上げるように大きく成長し、イッパシの男の雰囲気すら漂わせる生徒もいましたから、私のように「なめられ系」の教師は策をめぐらし、あらかじめ手を打っておく必要があったのです。生徒とじゃれあいながら面白半分でプロレスの技をかけ生徒が、「先生、痛い、痛い」と叫んでもなかなか技を解かないで、「ごめん、ごめん、先生、力入れてないつもりだったけど、痛かった?」と笑いながら、もう少しだけ力を入れてトドメの一撃を加えておくのです。なぜかって?そのときの「トドメの一撃」体験が中3になって効いてくるからです。悪さをしている生徒を見つけて「何しているんだ!」と怒鳴っても、私のかわいい教え子たちは口答え一つせずに、いまや見上げるほどの生徒がね、腰をかがめてみずから頭を差し出してくるのだからたまりません。あのときの痛みが体に染み付いていて、「強いセンセイ」に思わず体から反応してしまうのですね。横綱になっても、部屋の稽古では兄弟子に負けてしまう相撲取りの話と似ているのかもしれません。この生徒たちとはいまも絶大な信頼感で結ばれている、かけがえのない人生の仲間です。

男子生徒のことばかり書いているので、女子生徒にはさぞかし手を焼いたと思われるかもしれませんが、実際、その通りでした(笑)。無邪気な男子生徒に対して女子生徒は、カンペキな魅力を具えていました。それも小悪魔のように小憎らしいほどの魅力を湛えていましたよ。若い男の教員にとって女子生徒ほど厄介なものはありません。若い男というだけの興味で、さんざんちやほや持ち上げておいて、気持ちが冷めたとなると知らん顔してストンと落す、当時の私も彼女たちにいいようにあしらわれました。新採用の頃、登校前の通学路で決まった時間に必ず私を待っている女子生徒がいました。犬に私の下の名をつけて呼んでいるとか、そんな他愛ない話を毎日してくれたり、時には手作りのプレゼントを手渡されたりと、彼女と会って言葉を交わすのが、新米教師の朝一番の日課となりました。

しかし、数ヵ月後、彼女の姿は朝の通学路から忽然と消えました。たまたま廊下であって言葉を交わすと彼女は何食わぬ顔で、「先生の名前の犬、死んじゃった…」と言うのです。生徒とはいえ、私は女というものの不可解さを痛感しました。また、こんなこともありました。はじめての卒業生を送り出し、ふたたび新入生の担任になった私は、クラスの明るい雰囲気に満足していました。女子生徒は休み時間といい、放課後といい、私の所へ来てはなんだかんだとキャーキャー騒いでいるので、私はウカツにもすべてが上手くいっているものとばかり思い込んでいました。ところが、表向きは明るいこのクラスの女子のあいだでは、小学校時から引きずっている二大勢力が密かに対立していて、そのうえ、「イジメ」も潜行していたのです。

父兄からの連絡で「イジメ」が発覚し、その原因である二大勢力の影の存在が私にもようやく分りかけてきたころ、私は女子への対応をまったく間違えてしまったのです。いつどこでどう間違えたかわかりません。「イジメ」は悪いと一方的に怒ったのが悪かったのか……いま思えば、教員として未熟な私の指導の仕方に原因があったことは疑いようもありませんが……いつのまにか、私はクラスの全女子を敵にまわす羽目になってしまっていました。私が通るそばから「汚い!」と騒いで、廊下の両側に人垣を作りキャーキャー騒ぎ立てる生徒たちは、こともあろうに、私が受け持っているクラスの女生徒なのです。

沿道に集まった観衆から浴びせられる、この怒号とも大笑いとも取れる心ない声々を、胸にナタでも突き刺したが如くに聞きながら歩いた時の辛さ、苦しさ、一人ぼっちの悲しさ……今思い出してもゾッとします。かばってあげた「イジメられっ子」の女の子もいつしかきつい目で私を睨みつけます。彼女たちの手痛い仕打ちに私は打ちのめされ、数年かかってやっと身に着けた教師としての自信もあっという間にどこかへ吹っ飛んでしまいました。

私が女を知る前に彼女たちから「オンナの怖さ」を教えてもらったのでした。しかし、それほど時間をおかずに、神様は「オンナの別の側面」も若い私の前に差し出してくれました。さんざん痛い目に合って、まがりなりにも「オンナ」の何たるかが、少し分りかけてくる頃には、むしろ逆に「オンナのよい面」が見えてくるものです。女性ならではの細やかな気働きのできる生徒、私の取り散らかした机の上を見ればきれいに整頓してくれる生徒、「肝っ玉おっかぁ」の素質がすでにほの見える生徒、物静かだけれどしっかりものの生徒、そんな女生徒たちに何度、助けられたことか、女子との関係がうまくいったときには、男子生徒にはない、また格別の冥利感があります。

「女子を制するものはクラスを制す。」この言葉、けだし、名言ですね。女生徒の扱いに慣れてくると、こんな会話もお手のものです。ラケットを持ってユニホーム姿で職員室に入ってくる女生徒にすかさず、「●●は、テニブスだったんだ?」と軽口を叩く、すると、生徒がほっぺを膨らませてフクレッ面して見せるから、「ごめん、ごめん、テニス部だったよね、とっても、かわいいよ」と言い訳してみせて、次の一手を用意して待っています。果たしてその女生徒は、思った通り、いままでのフクレッ面を満面の笑顔に変えて「うっそ-、先生ったら、ほんとに~」といとも簡単に罠にはまるから、もうたまりません。「うん、ほんとだよ、ほんとにかわいいよ…脳みそが!」
「えっ……!?……ヤダ―、先生なんて大っ嫌い!!!」女生徒と、こんなやり取りが平気で出来るようになってはじめて、男性教師は一人前の教師になるのでしょう。もっとも私の場合はちょっぴり時間を要しましたが……

参考記事:教師論
→些細なことを軽視して学級崩壊を経験:「教師の皆さん、些細なことを大切に!」
→厳しい昨今の教育現場、教師の生き方を提案します:「教師の課題を解決する、演劇教育コミュニケーション・メソッド」

Q14. 先生として大切にしていた事は何ですか?

A14. 生徒を見守る姿勢、生徒の心の声を聴くことでしょうか。

それまでもずっと、生徒目線で生徒の声を聴く姿勢を貫いてきたつもりだったのですが、それはあくまで「つもり」でした。そのことに気づかされたのは、それほど前のことではありません、つい最近のことです。しかも、教師としてはいけない失敗を通して生徒から教えられました。

産休教員として勤務した高校での事です。年度途中の交代であり、私は高校3年の学級担任を受け持つことになりました。単位制の高校で、20人弱のクラスでした。ほとんどの生徒が卒業年度……卒業単位に満たない生徒は6年まで在学の猶予が認められているサポート校でしたから、そういう言い方をするのですが、7月からの途中勤務ということもあって、私はさっそく個人面談を行いました。面談は夏休みまでずれ込むことになりました。夏休みに入ったばかりの暑い日、ある女生徒と面談を行いました。その生徒は本年度の卒業を目指していたのですが、欠席がちで、このままでは卒業が危ぶまれていました。

単位制の学校であるがゆえに、自己責任で履修科目の単位を取らなければ卒業をできません。普通の高校のようにみんなそろって卒業というわけにはいかないのです。不登校経験の多いこの学校で、このような生徒は珍しくはありません。生徒の個別の事情により指導は一人一人違います。普通であれば遅刻が多ければ叱り生活態度を正すのですが、この学校では欠席が多くても遅刻が多くても生徒を叱ったりはしません。それぞれにそれぞれの「事情」があるからです。

精神的なものから肉体的なもの、それに家庭の事情が絡んで、一概にその是非を問うことができないのです。教師の指導は、医者の仕事のように、生徒の原因を鑑み、現実の対策を講じるのです。現状に理解を示しながら、同時に現状打破の具体的な手立てを指し示すことが、指導において求められているのです。この生徒の場合、本年度の卒業が課題でした。目的を達成するためにはともかく登校することなのです。普通なら叱咤激励ですむところもすんなりいきません。だからといて、生徒の心情を汲んで、その辛い経験に共感ばかりもしていられません。

卒業したいという生徒に対して、「何とか卒業までこぎつけさせてあげたい」と思うのは人情です。それが当然と思ってしまった私は、真の意味で、まだこの高校の生徒たちそれぞれの「事情」を理解してはいませんでした。彼女が遠距離にもかからず、この暑い最中に登校してくれたことも、この「なんとかしてあげたい」という強い気持ちの後押しをしたにちがいありません。こんな暑い日に学校に来られるのだから、普段だって頑張れば、何とかなる、私は軽率にもそう思ってしまったのです。この日の面談はこの生徒だけであったために、面談は1時間、熱のこもった指導になりました。しかし、結果は逆効果。私の「なんとか」という思い入れが、生徒の心に重くのしかかったようでした。

後日、母親から副校長に電話が入りました。「担任に傷つけられて、もう学校へ行きたくない」と。もちろん、引き継ぎにあたって、前担任の意見、前籍校の成績や所見、転校の経緯など、その生徒の背景に一通り目を通したのはいうまでもありません。書面をそのまま受け取ってもいけないことも十分承知していました。しかし、年度途中での引き継ぎうえ、卒業のかかっているということが、私に気負いをもたらしました。この生徒が卒業するための出席日数にまず目が行きました。残りはあと半年、いち早く手を打たなければという思いが強すぎたのかもしれません。この思いは教師の独善と言い換えてもよいでしょう。そうです!生徒の心の真実は私の思いとは全くかけ離れていました。

欠席日数の足りない、休みがちの生徒が、夏休みにもかからず、しかも日中の暑い最中、気力を絞って学校へ来たのは、「この先生に私を分かってもらいたい。すべては、それからでいい。自分でさえ思うようにならない自分の心を何とか先生に分かってもらいたい」という思いからではなかったのでしょうか。彼女は切ない思いを抱いて、暑い盛りにわざわざ学校まで足を運んだに違いなかったのです。私はこの気持ちを取り違えて、むしろ彼女の心を逆なぜしてしまったのです。

決して無理なことを言ったつもりはありません。彼女の様子を見ながら、意欲を喚起したり、やんわりと励ましもしました。とはいえ、それは言い訳ですね。ほとんど口を開かない彼女、私は苛立ちを覚えたのは確かです。せっかく出てきてくれたのだから、「このまま帰してしまっては……」という思いが先立ってしまったのです。私たち教師は生徒の悩みや困難に対して、「何か有益な指導をしなければ」とつい思ってしまいます。しかし、何より必要なのは一人ひとりの一人ひとり違った生徒の心の声を聴くことなのです。生徒を理解し指導をするのに、言葉が先に来るのではありません。この当たり前のことを彼女から教わったのです。

教師は、教壇という高みから大勢の生徒を見るので、その当たり前のことをつい忘れてしまいます。教師になりたての頃、生徒と同じ目線で、ため口を聞かれながら、一緒になって遊んだ時の方が、生徒の心がよく聞こえていたなと思うとはっとしました。私はなまじ自信を持ったために、その肝心なことを忘れてしまっていました。面談の1時間やそこらでその生徒が分かるはずもありません。まして、ほとんど初対面の生徒にアドバスなどできるわけがありません。教師を長くしていると、その当たり前のことをつい忘れます。私だけかもしれませんが……
私に求められていたのは、生徒の現状を見るのではなく、生徒の現状を聴くことだったのでした。

見るのに時間はかかりません。しかし、聴くには時間が要ります。しかも、声なき声を聴く、その時間が必要だったのです。生徒の心に寄り添う時間が必要だったのです。沈黙を恐れることはありません。むしろ、生と丸ごと受け入れるには沈黙の時間が必要なのではないでしょうか。生徒の気持ちが言葉になるまで待つこと。その言葉しっかりと受け止めてあげる、それだけでいいのかもしれません。そしてそこから、信頼の土台が築かれていくのでしょう。

生徒の現実を変えるのは、アドバイスではありませんよね。まして激励の言葉などではありません。いうまでもなく、生徒自身の現状を何とかしようとする心なのですね。こんな当然のことにいまさらながらに気づかされたのです。生徒の心が変わらない限り何も生まれません。ただ黙って聴いてあげる、見守ってあげるという教師の態度こそ、指導の根本であるように思えてなりません。教師になってから20数年たったある日に改めてそのことに気づかされたのでした。

参考資料:
「期待しないで見守ること、その信頼がバネになる」
「生きることは楽しいと言い切るゆとりのある人間が、我々の中に何人いるだろう」
「教師の課題を解決する、演劇教育コミュニケーション・メソッド」

Q15. 演劇で思い出に残っていることは何ですか?

A15. はじめての稽古のときのことは、いまでも鮮明に覚えています。

その日は朝から緊張していました。当時「人前恐怖症」の私にとって、今日から稽古が始まる、それだけで大変でした。河原の土手下にある稽古場、板張りの床でスペースは取れましたが、鉄筋にモルタルを張り付けただけの簡素な建物だったため、冬は冷気が足元から立ち上がってくる、そんな無機質な空間のなか、研修生の初顔合わせが行われました。

このときの研究生の担当が、私にとって人生のお師匠さんでもある、問(モン)さんでした。本名は今もってわかりません。たしか名前は問太(モンタ)だったと思います。劇団員からは問さんと呼ばれていましたので、私たち研修生も問さんと呼びました。年のころは40歳半ばを過ぎていたとは思いましたが、この業界の人達の年齢は不詳です。身なりが若いので見た目より数歳上であることが多いようですが、年齢についても、いまもって分かりません。私はこの時、すでに25歳になっていました。

世間一般から見ると、演劇を始めるには遅い年齢です。俳優になりたいのなら、もっと早くスタートを切っていなければ話になりません。私の場合、まったく事情が違ったのでしたね(Q5に書きました)。ともあれ、私の演劇人生がスタートしました。この年の研修生はたしか8人だったと覚えています。自己紹介から初稽古は始まりました。私の顔は極度の緊張からか、上気して硬くこわばっていました。私はできるだけ平静を装っていましたが、自己紹介が終わっても体は固まったまま、まったく心に余裕がありません。そんな私の様子を見て、問さんは、いきなり私を、みんなの前に連れ出したのです。突然の、この出来事に私の体は縮み上がりました。

みんなの前に立ってモゾモゾ体を動かしている私、問さんは黙って見ています。耐えられないほど長い沈黙が流れました。そのあいだ、問さんは何も言いません。私が訴えるように問さんを見ると、「ただ立っているだけでいいよ」
とよく聞き取れない言葉で、そう言います。「そう言われても……」と、私は困惑の極致でした。みんなから見られる恥ずかしさのあまり、私は例によって、自然に体が動き出します。みんなが笑っているような感じに居たたまれない気持ちで、その長すぎるほんの2、3分を耐えていました。

問さんは、私に向かって「ハイ」と言って手を叩くと、にこやかに微笑みかけました。「やっと苦しみから解放された」と、すぐさま自分の席に戻ろうとする私に、問さんはやはり微笑みかけて何か言ったように覚えています。問さんの前歯は一本かけているので息がスース-抜けて、私には言葉がうまく聞き取れません。それに緊張も手伝って何を言っているのかまったく理解できませんでした。
恥ずかしさのあまり一刻でも速く席に着こうとする私を制止すると、「どうだった?」と聞きます。何も言えずにキョトンとしている私に、問さんはスース-息の漏れる言葉で尋ねた。

問「どう、気分は?」
私「気分と言われても……」

私は、今度は何をさせられるのかオドオドしながら、表情を取り繕って笑おうとしましたが、顔がピクピク動くだけでした。「今度は、そうね……あなたの服、そう、あなたが着ている服、そう、格子柄の線が何本あるのか数えてみて?」と、問さんはにこやかにそう言います。私は何のとかさっぱり分らず、またキョトン。問さんは、スタスタと私のところまでやって来て、私の着ている服の格子模様を指しました。

問「この線、そう、この線が何本あるか、数えてくれない?」
私「縦ですか?横ですか?」
問「うん、両方」

私は何がなんだか解らぬままに、自分の服の縦横無尽に走る、その細かい線を一本一本、間違えないように私は数えはじめました。何分経ったのだろうか……問さんが「ハイ」といって手を叩く音が聞こえました。そして、「何本あった?」と私に問いかけました。この数字をいま覚えているはずもありませんが、その時の私は、一本でも間違えないように真剣に数え、そして「523本」と答えました。
問さんは相変わらず微笑みながら、話を続けました。

問「どうだった?」
私「えっ、……」
問「…緊張した?」
私「えっ……」
問「とっても堂々としていたよねぇ」
私「……」
問「立派に立っていたじゃん!」

問さんは、そう言ってみんなのほうを向くと、研修生たちも私の変貌ぶりに驚いたといったふうに頷いていました。私は数えることに夢中で緊張していることなんか、すっかり忘れていました。なんとまあ!稽古初日で、私は人生で初めて人前に立って緊張しない経験を手にすることができたのです。この記念すべき体験は、喜びとともにその後、私の心に深く刻まれました。

後から分ったことですが、これは、スタニスラフスキーの演技術(註:スタニスラフスキーロシアの演出家、その演技術はスタニスラフスキー・システムと呼ばれている)の最初の訓練なのだそうです。「注意の集中」といって、舞台に立つ俳優が舞台の中の具体的な何かに注意を向けることにより、観客の視線から解放される方法なのです。この方法によって、人前に出ることに恐れおののいていた私が、みんなの前で緊張せずに立つことができたのです。私の演劇人生は、ここから始まりました。

私たち研修生たちは、この日を境に、問さんの導きによって自分自身に気づいていくことになります。エチュードと呼ばれる演劇トレーニングをよくさせられました。問さんが、状況を設定し研修生は、その状況で即興寸劇をするのです。たとえば、日曜日の朝、バス停で、昨日会社で大喧嘩した人とバッタリ合ってしまうという状況設定……隣り合わせに並んでバスを待っている二人が、バスが来るまでの時間、どんな会話をしてどう振る舞うのか、そのシーンを演じるのです。毎回、そんな風に厄介なお題がいきなり出されるのです。

私たちは問さんに指名されると、考える間も与えらずに「即」演じなければなりません……緊張して機転の回らない私はいつも四苦八苦。恥ずかしい気持ちでいっぱい、頭のなかは真っ白、動作はぎこちなく言葉は空回り。そんな稽古が何度も繰り返されました。稽古の合間に、時折、問さんが話してくれる、自身の体験談、若いときの失敗談は私たちの楽しみの一つでした。心をほっとさせてくれました。問さんの話は実践的で、破天荒。話の中身はとりとめもありませんが、言わずもがな、「実践して学べ」と私たちに諭しているようでした。「勇気をもってチャレンジせよ、失敗しながら学べ」と。

稽古に行くときと帰るときでは、すでに同じ自分ではないような気がしました。稽古のたびに一皮むけている自分を感じました。苦痛に立ち向かう喜びがありました。緊張を乗り越えた心地よい充実感がありました。自分がガラガラ音を立てて壊れていくような錯覚、気がつけば前の自分と違う、なんとも素晴らしい日々でした。劇団の「親組」の公演があるときは稽古が「ベタ」、すなわち毎晩になるので、私たち研究生の稽古時間は、「親組」の稽古が終わる夜10時ごろからはじまり、稽古は深夜の1時ごろまで続きました。しかし、それで稽古は終わりというわけではありません。そのあと24時間営業のファミレスへ行って、反省会…とはいうものの、悩みを打ち明け合ったり、問さんの人生裏話を聞いたりと、私たち研究生にとって文字通りの人生劇場でした。

劇団のある石和(註:石和は甲府の隣町。東京から一番近い温泉歓楽街のある町で有名)から河口湖まではおおよそ30キロありました。石和から国道137号線を400ccのバイクで、街灯もまばらな闇の中を突き抜けるように飛ばして帰るのですが、御坂峠の長いトンネルを抜けて河口湖の自宅につくのは、大抵午前4時ごろになっていました。若いということもありましたが、よく体力が続いたものです。もっとも、私が勤務する中学校の裏手の職員住宅に住んでいたのは、なんとも幸運。職員室までは1分もかかりません。それをいいことに、私は打ち合わせの始まる直前まで寝ていました。5分前のチャイムが鳴って跳び起きると歯も磨かず、職員室に駆け込んでいったものでした。ところで、歯はいつ磨いたかって?朝のホームルームが終わって、授業までの少し時間、その合間を縫って裏の職員住宅に帰り、歯を磨き、時間があれば朝食まで掻き込んだのです。いま振り返ると、何か憑き物が取りついたような、夢のような熱狂がありました。

Q16. 演劇とは何だと思いますか?

A16. 演劇とは、私の人生そのものです。少し気障ですが……

演劇は私の師であり、人生の恩人!私は演劇によって救われたといっても過言ではありません。ここまで読んでくれた読者は演劇を志すに至った経緯をよく分かってくださっているとは思います(この辺りについてはQ5,Q10Q11に詳述しました)。

まあ、情けないことに、当時の私といったら、本来の自分をどこかに置き忘れて、見た目や体裁だけを繕い、自分との決着をいつも先送りにする不甲斐ない生き方をしていたのです。自分を信じられない私にとって人の評価が自身の評価基準、確固とした生き方が自分のなかになかったものですから、いつも自分を抑え他人の意向ばかり気にしていました。わずかばかりのプライドが傷つくのを恐れて、他人に合わせていつも安全なところに身を置いていたのでした。教師という職に就いて精神的に破綻をきたした私は、熊に追われて海岸絶壁まで追い詰められた男が眼下に広がる海に恐れをなして今度は、獰猛な熊のほうへ一目散に逃げていくような無茶苦茶な開き直りを演じたのでした。「人前恐怖症」の私がこともあろうに劇団の門を叩いたのです。私は演劇と決闘する覚悟を決めたのでした。

そんな覚悟の私を知ってか知らずか、先ほど紹介した研修生担当の問(モン)さんは、ひょうひょうとした佇まいの人でした。その人柄同様、演技の指導ものらりくらり。私たちを煙にでも巻くように、演劇に誘ってくれたのです。私の人生のお師匠さんは、演劇の極意とか、人前に立つための、何か特別な技法を授けてくれたわけではありませんでした。たしかに「エチュード」(即興寸劇)はたくさんした覚えがあります。しかし、それ以外の「稽古」はほとんど記憶にありません。発声練習、滑舌訓練、パントマイム(黙劇)など、演劇の基礎訓練といったものは全くしなかったように記憶しています。

普通に考えれば、演劇は「人前恐怖症」の私がもっとも近づいてはいけない取扱い危険物です。ただたんに開き直ったところで、うまくいくはずもないことは火を見るより明らかです。当時の私は、自分と向かい会うことも、人と向かい合うこともできない、そればかりか、いくら日常で嘘の自分を演じても、いったん人前に立てば身がすくんで何もできません。そんなできない尽くしで、いったい私は何を演じるのでしょう?途中挫折、演劇でさらに自信を喪失、人生の路頭に迷ったとしても、全くおかしくないことでした。問さんは世間一般の演劇は教えてくれませんでした。けれども、問さんは私たちに最も演劇的なるものを教えてくれたように思えます。

問さんは体系的な指導はしません。私たちは「問さんの体験話」を聞いて人生を考え、問さんがその都度「お題」を出して行う「エチュード」(「エチュード」の稽古についてはQ12を参照)で、自分について考えさせられました。「大事なこと」はストレートに言わないで考えさせる、そんな「教師の鏡」の問さんに私たちは体で考えることの楽しさを教わったように思います。知らず知らずに体が問題を解いていくように「演劇」のエッセンスを体得していきました。「問さんの教えをまとめることはできません」、こう有体に言ってしまえば身も蓋もありませんが、まあ、あえて言葉にすれば、問さんの演劇観は、「日常をそのまま反転したところにこそ演劇がある」なんて言い回しになるのかな?分かりづらいですね、こう言い換えましょうか?「日常の方が嘘の世界で、舞台の方が真実の世界だ」……もっと分かりにくいですね。私の言葉で説明しましょう。演技とは、嘘偽りの自分を演じることではなく、たとえ配役を演じたとしても、それは真実の自分を演じること、それが演劇。少し分かっていただけたでしょうか。

問さんはこんな風に言います。「あるがままの姿で舞台に上がった瞬間、それがすでに演技である。それが演劇だ!」と。問さんは演技指導などしません。「ダメ出し」はもちろん、こうしろ、ああしろと上段からものを言うことはまずありませんでした。エチュードの手法で、状況だけを設定して私たちが即興で演じるのを見て、感想を述べるだけでした。「ほほう、この状況で、こんなことするんだ、面白いじゃんねぇ、すごいね」というふうなことを言うのです。「その動き面白いねぇ、もっと大きく動かしてみたら……どうなるんだろう?」一縷の望みを託して無謀にも演劇を始めた私ですが、実のところ、演劇によって自分の悩みが解決できるとはさっぱり思っていませんでした。「とにかく人前に立つ術を学ぶだけでいい!それよりも、何としても避けなければいけないのは、舞台に立ってみんなから物笑いの種にされることだ!」それだけでした。もしそんなことになったら、荒療法もヘッタクレもありませんからね。全くの逆効果ですから……

とにかくその恐れが呪文のように、私の頭にいつもこびりついていました。しかし、問さんのにこやかな顔の中から発せられる真剣なまなざし、ひと言では言い難い「愛」を肌に感じながら、その指示通りに、おずおずとやってみると、その呪文は嘘のように消えていきました。問さん、マジック!「もっと大きく動かしてみたら」が、もっと大きく動かせばもっと楽に生きられるよ、もっと大きく動かせば、自分を開放できるよと、問さんが生きる方向を指し示しくださいました。問さんの無手勝流の稽古を重ねていくうちに、問さんが、あたかも救世主ようにも、私には見えてきたのです。問さんならではの演劇論をもう少しひも解いてみましょう。

たとえば、演技中に私の手が緊張で震えているとします。普通なら、「緊張しているから、深呼吸でもしてリラックスしようか」と言うところを、問さんはそうは言いません。問さんは私の弱点をズバッと突いて、そして、「面白いねぇ、その手をもっと震わせてみたら」とにこやかに言います。私は言われたとおり、同じ設定で、同じセリフを発し、手を大きく震わせるのです。すると、どうでしょう。手を震わせることに夢中になって、いつのまにか緊張しなくなるのです。そればかりでありません。問さんは、今度は設定を変えて手の震える演技をさせるのです。私は変な感覚に襲われます。演技をしながら冷静に見ている自分がいます。もっと上手な演技をみたいという「私」が私の体に寄り添っています。さらに意外なことは、物笑いにされたらどうしようという「呪いの言葉」などすっかり忘れているのではありませんか。「そうそう、で、面白かったじゃんね、ハ~イ、もっと緊張するにはどうしたらいい?」と問さんの声が飛んできます。すでに緊張から解き放されている私に、今度は演技で緊張するように仕向ける声に私もすぐさま応じます。「そうだ、さっきの心理状態に戻ればいい演技ができるかも・・」あれほど、緊張することを恐れ、それを隠そうとしてブザマな姿をさらしていた私が今度は進んで緊張しようとしているのです。笑っちゃいますよね。私は上手に「緊張」しようとしているのですからね。

人前で緊張している「私」を思い出し、その心理状態になろうと無我夢中でいる「私」がいるのです。問さんの巧みな手ほどきによって私たちは「演技」することの難題に一生懸命挑戦していったのです。「ハ~イ、よかったねぇ、体が喜んでいる」この瞬間こそ、みんなの前に立つことにはじめて喜びを感じたときでした。「俳優とはいつも喜びに満ちていなければならない」この言葉こそ、私たちに向かって、問さんが幾度となく言った言葉です。たとえ悲劇を演じる俳優であっても、内面に喜びを抱えていなければ、演技などできないと問さんはつねづね言っていました。

舞台とは、喜びを土台にして、肯定し、関わり、そして挑戦する、「命」の燃えたぎる場所、そこにはあらゆる可能性が広がっている、問さんは私たちの「あるがまま」を基準にして、そこから「活き活きした」演技を引き出してくれました。ミケランジェロのダビデ像は有名ですが、その原石の大理石には大きな亀裂があったといいます。ミケランジェロは、他の彫刻家が誰も見向きもしない大きな亀裂の入った、この大理石のなかに、ダビデを見たと伝えられています。ミケランジェロの鋭い洞察力を示す逸話ですが、私たちの欠点を上手に生かして、個性的な演技にまで高めてしまう問さんの、私たちを見る目と相通じるものがあるように思えます。

問さんによって私たちは、内面の目を開かされました。自分の演技スタイルに気付くにしたがって、本来の自分のあり方、正しい生き方のスタイルにも気づかされていきました。このことが冒頭に少々気障な言葉を使って述べた、「演劇とは私の人生そのもの」ということなのです。

Q17. なぜ「愚放塾」を創ろうと思ったのですか?

A17. 死の淵を覗いたことでしょうか。その闇の中から、自分の魂の呼び声が聴こえてきたのです。

私は演劇によって人生を救われました。演劇は私の人生そのものですね(Q14参照)。演劇指導の経験をもとに独自のメソッドを開発して不遇な若者たちを支援しようと長い間考えていたのですが、50歳の時に癌にかかり、かえってそれが私の人生の大きな原動力になりました。

癌から奇跡的に生還したことは、私に使命の自覚を促したのです。残された人生を若者たちのために捧げたいと強く思うようになり、「愚放塾」をつくる決心をしました。足掛け5年にわたる癌との闘いは、私のこれまでの人生の中でのメインイベントです。そのドラマをみなさんにお伝えしないわけにはいきませんので、闘病の顛末について書いていきたいと思います。

2007年6月に直腸に2.5センチの癌が発見されました。結果が出ると、さっそく手術の予定が入れられ、数週間後にも手術を実施することになりました。担当医はちょうどいいタイミングで見つかったと喜び、いま手術すれば完治しますと言ってはくれたのですが、しかし私には医者の言葉が、どうしても腑に落ちません。なにか固い殻のようなものが喉元に引っ掛かっていました。乳がんで母親を亡くし、癌医療に不信感を抱いていた私は、担当医の丁寧な説明を受けるたびに、かえって疑問を募らせていきました。どうしても納得できなかった私は手術の直前に病院から逃げだしました。そして、無謀にも癌を自分の力で治す決心をしたのでした。

その日を境に、私は癌に関する本を読み漁り、手術以外で癌を治すありとあらゆる方法を試みました。漢方から民間医療、代替医療等の情報を集め、自分に適した治療法を探しました。どんなに遠くでも治療を受けに行きました。もちろん、自力で治す自信などまったくありませんでした。実際は不安でいっぱいでした。しかし、癌が自然寛解した人の話を読んでは勇気づけられ、また、妻の献身的な看護に支えられて……いや、妻にとっては多大な迷惑だったにちがいありません……私の身勝手な決心に文句を言わず協力してくれた妻には感謝の言葉もありません。その時のことが話題になると平身低頭、彼女のためならどんなことでもしてあげようとさえ思ってしまいます。ともあれ、私は仕事を続けながら、自分の選択した治療を信じて、一度決めた道を貫こうとしました。

しかし、結果は全くの裏目にでてしまいました。その2年の間に、癌はすでに腸壁を破るほど大きくなっていたにもかかわらず、当時単位制の高校に勤務している間はまったく痛みがありませんでした。私は順調に治癒しているものと不覚にも油断して、病院での定期検診すらしていなかったのです。いま思えば、なんとも不思議なことでした。自力で癌を治すと決めた日からまったく痛みは感じません。ですから、いろんな治療法を試してみても、そのすべてが効いているものだとばかり勝手に思い込んでいたのです。万事順調、私の癌は確実に小さくなっていると安心していたのです。

2009年の3月、産休代替教員としての契約が切れて自宅で思う存分治療をしようとした矢先、経験したことのない猛烈な痛みに襲われます。激痛はひっきりなしです。24時間フルタイムで、私を苦しめました。長く座ることもできず、横になっても眠ることもできず、我慢の限界を超えた私は再び病院に駆け込む羽目になりました。診断結果は、癌が8センチまで増殖、すでに肛門の数センチの手前ところまで来ているということでした。すぐに手術なのかと思いましたが、医師はPCの画面をスクロールしながら手術予約者名簿を見せて、ベッドが空くまではおよそ2ヶ月待ちだと告げました。私は病院を変えようと思いましたが、「2年間放置していたんでしょう、いまさら2か月先延ばしところで変わりませんよ」と、淡々と言う医者の言葉が妙に腑に落ちました。私は覚悟を決めて、手術の日まで自宅でできる限りのことをして待つことにしました。それに、この医者なら大丈夫だという直感もありましたので……理由はよく分かりませんが、その飄々とした語り口に職人気質に近いものを感じたのかもしれません。

とにかく、私は医師にできるだけ強い痛み止めの薬を所望し、自宅待機することに決めました。とはいえ、自宅待機はけっして安楽なものではありませんでした。容赦しない激痛、その現実空間と、死の恐怖が重くのしかかって足元の定まらない心理空間の中で、よく耐えたものだなあと感心します。そのとき、体重はすでに38キロまで落ちていました。いま振り返っても、生きた心地のしない乏しい現実感が蘇ってきます。解きがたい不安と終わりの見えない時間感覚、無重力空間に宙づりにされているような感じでしょうか。癌が発見されてすぐさま手術をしないことを後悔しなかったといえば嘘になります。「あの医者の言うとおりにしておけばどんなによかったか」、「人生最大のミステイクを犯してしまった」、「いまとなっては所詮後の祭り」と、悔い悔やむ言葉が襲ってきます。けれども、とめどなく湧いては消える、そのやるせいない気持ちを救ったのが、患部の抉るような激痛であったとは、まったくの皮肉です。

手術が決まるまでの日々は、たしかに痛みとの闘いでした。痛み止めがほとんど効かず、患部を温めることでなんとかこらえるのがやっとでした。夜も睡眠薬の手を借りてやっと眠りについてもすぐに痛みで目が覚めました。この痛みによって精神的には救われたのです。しかし、一日のうちのわずかですが、ほんの数時間は不定期に痛みが引く時があります。痛みが癒えると、今度は痛みで忘れていた不安が襲ってきます。死の不安に苛まれます。すべてが空しく悲しく身も世もなくなりました。死、それを直視するに私は弱すぎました。死を思っただけでも体中に戦慄が走りました。楽に死ねたらどんないいだろうか、苦しまないで気楽に死ねることができたら、どんなに幸せだろうか、こんな慰み言で気を紛らわすのがやっとのことでした。激しい痛みと死の不安に染め上げられた日々のなかでの希望は、妻の絶対に治るという言葉でした。私が弱音を吐いても、動じる様子もなく手当てを続けてくれました。私は彼女の能天気とさえ思えるほどの明るさにすがり、先の見えない明日を、目を凝らして見るだけの気力を持ち得ることができました。そんな日々のなかで、私はある奇妙な体験をしました。

ある晩のことです。布団の上で、死んだ母親や田舎に残して一人暮らしをしている父を思い浮かべていたら、涙が溢れてきました。感極まって、身をゆだねていると、そのうちに、閉じた目の裏から、楕円形の赤、緑、紫、黄、青とつぎつぎと変化する色が現れて、とめどなく変化しています。驚いて目を開きました。両手を体の上に持っていき手のひらを開きました。暗い部屋のなかで、両手の5本の指先から薄い光の線が何本も出ていました。なおも指先をぼんやり見つめていると、両手の間に丸い光が出てきました。結構強かったように思えます。何か強いエネルギーを感じましたので、患部にその手を当てて、ふたたび目を閉じました。すると、閉じた瞬間に、強い光がよぎりました。光の塊が流れては消え、流れては消えていきます。「なんだ、これは?」と思いながら、その光を見つめると、光の中心には、人の顔やら骸骨やら得体の知れないものが現れて、そして消えていきます。私は目を閉じているのですが、頭の中では映画でも見ているように、光の塊が、しかも人の顔や骸骨といったグロテスクなものを包み込んで、現れては消えていくのです。私は意外なほど冷静でした。

心は澄み切って、「どうなるのだろう」と、つぎつぎと繰り広げられる出来事を見ていました。すべての光が体の中から出尽くしたように、激しくきらびやかなショーはあっけなく終わりました。そのあとは、打って変わって、静謐な世界が広がっています。なにやら、雲のようなものが静かにゆっくり動いています。山あいに漂う朝もやのなかに、大きな黒い穴のようなものが見えてきました。そのうちに、うっすらと大仏がその大きな姿をあらわしてきました。黒い穴は下から見上げた大仏の鼻だったのです。大仏の優しい顔を拝見したとき、ほんとに心が満たされてやすらかな気持ちになりました。羽をつけたキューピットのようなものも現れて、かろやかに飛んでいます。そのシーンが終わると、今度は満天の星空が映し出されます。地上で星空を眺めているというより、私も宇宙のどこかに居て、星を見ている、そんな感じです。宇宙は、星がきらめく中、大きな岩や得体の知れないものがゆっくりと動いて、目の前を通り過ぎていきます。しばらくこの光景を見ているうちに、私は救われたように思えました。そして、必ず治るという確信に変わりました……

病院から連絡のあったのは、その奇妙な体験をしてから間もなくだったように記憶しています。診察の日からすでに2ヶ月が経過していました。それから後は、まさに激流の渦に巻き込まれたように、月日が過ぎていきました。入院、手術、退院、自宅療養と瞬く間に月日は過ぎて、身内、友人、知人、そして教え子たちの声や笑顔に励まされ、私はなんとか生き延びました。それにつけても、演劇部の生徒たちはたいした生徒たちです。私の癌が発見された、その当初からひたすら支えてくれました。私が手術を拒否して挙句の果てに絶体絶命の大ピンチに陥った時でさえも、身内のように私を信じて支え続けてくれました。私が手術を拒否したと知った時には、「なんとか思い止まらせよう」とみんなで集まって説得の相談をしたと後に聞きましたが、実際は私の治療方針をむしろ支援するためにカンパまでしてくれたのです。私はなんとも果報者です。妻をはじめ、演劇部の生徒たちの献身よって、「生還」を果たしたといっても過言ではありません。私は「私以上に私を信じてくれる存在」に恵まれ、驚くような命の不思議を経験したのでした。

手術から2年ほどたって、私は産休代替教員として都内の高校に復帰しました。その高校で数ヶ月が過ぎようとしていたある晩のことです。私はふたたび奇妙な体験をしました。今度は夢でした。祖父が夢に出てきました。祖父は縁側で小鳥に餌をやっています。クレヨンで新聞広告の裏に落書きをしている幼い私がいます。祖父はその小鳥を大切しろというようなことをつぶやいたかと思うと、私の着ている服を脱いで干せと言います。私は言われるままに裸になりました。裸になったのは50歳をとうに過ぎて痩せこけた初老の男です。私でした。醜い裸姿をさらして、私は恥ずかしさのあまり、自分が消えていくような感覚に襲われました。祖父は私に向かって、こんなことを言いました。その言葉ははっきり覚えています。

「干しているうちに日に当たって色が滲み出てくる。その色がお前の色だ、その色を使って絵を描きなさい」と。朝目が覚めても、日にさらされ滲み出た色がまぶしく目に焼き付いていました。そのとき私は夢が何を暗示しているか、おぼろげにわかってはいたものの、本当の意味を理解するにはもう少し時間が必要でした。当時、私が勤めていたのは都立の工業高校でした。1年のあいだにクラスで3分の1がやめていく教育現場を目の当たりにしていました。授業もまともに受けることができない生徒たちがなんの展望もないまま辞めていきます。高校に編入再受験する生徒はごく少数で、そのまま社会に出て行く生徒も多いと聞きました。中卒の資格しかない彼ら彼女らは、これからどうなっていくのだろうとは思いながらも、自分なりの答えを出すのは先送りにしていました。

離任式の日、転任するほかの教師と一緒に私も壇上に立って別れの挨拶をしました。好きな詩人であり、尊敬する演劇人でもあった寺山修司の言葉を引用して「サヨナラだけが人生だ」と気の利いた風なことを言った後、ふとして言い知れぬ居心地の悪さを覚えました。それから、ぼんやりとあの祖父が出てきた夢のシーンが頭をよぎりました。癌で死の淵を覗いた後の私は、「人生とは諦念」、かように悟った気分になっていたように思えます。けれども、生悟りの私に痛棒でも食らわすように、「サヨナラだって?そうじゃない、自分をさらすんだ!」と、祖父がふたたび離任式の壇上の席にあらわれたのではないのでしょうか。私は訳も分からず、後悔の念に駆られていました。

壇上からは生徒の顔、顔、顔、顔、顔がこちらを向いています。にこやかな顔、沈んだ顔、真剣な顔、ふてくされている顔、視点の定まらない顔、それらの奥に「宝物」が隠されている、その「宝物」は、道端に落ちていても、誰ひとり眼もくれず素通りしていくようなものかもしれません。そうです、誰も見向きもしないかもしれません。しかし、世間の「モノサシ」では、けっして計ることのできない、本来の自分という素晴らしい宝物、それを探して「お前の宝物」といって差し出してあげたい、そんな思いに駆られました。ちょっとした未熟さから学校を辞めたり、安易な考えから場当たり的な生き方を繰り返し、自分を生かしきれてない多くの若者たちとかかわって、彼ら彼女らのよさを引き出してあげたい、そんなことを私は離任式の日に考えていました。

世の中の人々は、地位、学歴、資格、業績、有名無名、資産等の肩書を見て、その人の価値を判断します。時流に乗って開いた花の華美なところばかりに目を奪われてしまいます。それに比べて、「なにもない」者はいかにも見栄えが悪い。しかしながら、「なにもないけど、すべてある」。その何もない自分を曝しているうちにいつしか自分の色がにじみ出てくるのではないでしょうか。その何物にも取って代わることのできない大切な宝物こそが、その人の人生を豊かにするではないでしょうか。「これこそ、若き日の自分が演劇で身を持って体験したことだ、私が自己開花した、その方法を若者たちに伝えたい」、「それこそ、私の使命だ!」と、離任式のそのときに、そう心に決めたのです。それから、2年の準備期間を経て、新しいタイプの学校を開くことになりました。それが「愚放塾」です。

才能は、常識人には分からない愚かなところに潜んでいます。かけがえのない美質は、世間のモノサシから放たれた所にあらわれるのです。そんな意味を込めて「愚放塾」と名付けました。

→「愚放塾の使命」については、「愚放塾の使命とは?」をお読みください。

入塾手続きについて

Q18.愚放塾に入るにはどうしたらいいのでしょうか?

A17. 入塾までの流れを説明します。

1.「お問い合わせ」から入塾を申し込んでください。その際、質問事項の欄に、「塾生募集ページ」にあるコースを選択して記入してください。

2.電話やメールを通じて、愚放塾教育の説明をし、質問を受け付けます。

3.愚放塾教育について、ご理解がいただけましたら、メールで「愚放塾規約」が送られてきますので、「同意」の一文を添えて返信してください。

4.授業料を入金してください。

5.入金確認後、個人票を記入していただきます。

6.個人票をもとに電話での話し合いを持ち、「個人教育プログラム」を作成しお送りします。

7.愚放塾での生活に関するガイダンスを送り、入塾の運びとなります。

以上で、入塾手続きが完了します。


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