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ありのままの自分論(1)
ありのままの自分を誤解しないでほしい。それはスタイルのこと!

2015/4/7 塾長ブログより
 
主婦の演劇サークルが面白い!
 
いまから10数年前、主婦の演劇サークルの指導をほぼ8年にわたって行った。僕がまだ40代前半の頃でメンバーのほとんどは僕より年上だった。なかには70代の女性もいた。この8年間の指導経験は、いままで若者しか指導してこなかった僕にとって貴重な体験であったとともに、演技の本質を考えるうえで非常に勉強になった。

市民公民館の一室を借りてそこを稽古場として利用したのだが、人生を半ば以上歩んできた人たちが醸し出す落ち着いた演技もさることながら、なによりも演技することを楽しんでいる雰囲気が稽古場にはあふれていた。笑いが絶えない。ほめ合って笑い、けなし合ってまた笑う。もちろん演技の巧拙もあるが、それよりも人生の中で育まれてきた生活実感のようなものが笑いの基準となっていた。

彼女たちの日常はさまざまな役柄で彩られている。主婦という家庭の中心でありながら、その行動範囲は近所づきあいからはじまって親戚づきあい、さらには子供の通う学校、パートで働く職場等と広い。その役割も、家庭においては、母親、妻、嫁、時には女として、父親代理としてのふるまいが求められる。近所においても、家の代表としての嫁、子供の親、主婦仲間にあっては友達、そして親戚、学校、職場と場を変えれば、それぞれの付き合い方に応じた顔を持っている。

彼女たちはすでに日常で「演技」をし何役もこなしているのである。そこに演技術など入り込む余地はない。その「演技」は家庭や世間において、さまざまな関係を取り結ぶために、あるいは取り成すために、いやがうえにも身に着ついた処世術なのだ。彼女たちが生活の折々の場で見せる仕草や表情は、生きていくための実践であり、生活していくための仮面なのである。
 
日常の延長から演技を作る魅力
 
そんな彼女たちであっても、人前に立つ以上、自分の演技が人の目にどう映るのか、どう見られているのか、気にならないわけがない。みんなを唸らせるような演技をしようと勢い込むあまり失態を演じ、笑いの渦に飲み込まれる。それも無理からぬこと、舞台に立とうとする者なら誰しも直面する課題である。演技が決して日常の延長線上にないことを彼女たちが弁えていた証拠でもある。

演技とは、一旦日常から切り離して台本を通過させたうえで再び日常に戻すプロセスを経てつくられるもの。そこに演劇の醍醐味があるといっても過言ではない。少なくとも僕はそう教わってきた。演技は事実を演じるものではなく、真実を演じるものだと何度も言われた。リアリズム演劇といえども、日常のままの身体を舞台に上げたときの、そのみすぼらしさを演出家は口を極めて指摘する。

それでも、僕は彼女らの演技を日常の延長線上から作り上げていくことに魅力を感じた。

どういうことなのか。

彼女たちの演技の源泉になっているのは生活の実践であり、生活の実感である。そして、日常における彼女らの「演技」は実用の中で鍛えられてきた。その「演技」は決して見せるための演技ではない。相手と関係を築くための「演技」である。そのことはすでに述べたが、彼女らと数回ほど稽古をともにして彼女らの役者としての面白さが見えはじめて来た頃、僕はそのつながる力としての「演技術」を最大限に活かさない手はないと直感したのだった。

それは僕の演出家としての直感でもあり、また、教育者としての直感でもあった。

たとえば、今朝あった事をそのままひとり芝居にするエチュードを課したとする。メンバーは思い思いに演じて、今朝の自分に起こったことを身振りを交えてしゃべり出す。自由奔放にありのままの自分をさらけ出している。

しかし、僕が躓いたのはまさしくそこである。
 
ありのままを曝け出し、ありのままを演じている
 
彼女たちはありのままを演じているようでいて決してありのままを見せているわけでない、そう感じたからである。一見、ありままに見えるが、どこがどう違うかわからないものの、何かが違う、そう僕は感じたのだった。

僕が少し手を加えて、音楽を流し、小道具を使って、動きを強調させたり、声を出させたりして、彼女たちの仮面を取り払おうとした。が、仮面を剥いだところから覗く顔はまたしても別の仮面。素顔らしきものが見えてこない。彼女たちのしたたかさに僕は根負けしたと同時に、ある決定的な場面に遭遇した。仮面がありのまま以上に見えた瞬間に出会ったのである。

彼女たちにとってはすべてがありのままであり、そのどれもがありのままという仮面なのである。いわば、ありのままを演じているのだ。何のてらいも臆面もなく、ありのままをさらけ出し、ありのままを演じている。

そういうことだったのか。

生活の実用の中から鍛え上げられた処世術がありのままを演じさせ、いつのまにか、ありのままの自分がいくつもあるようになっている。たしかに表沙汰にできない自分もあるだろう。が、その自分でさえ場が変わればいとも簡単にさらけ出すこともできる。そこが彼女たちの生きの証しであり、したたかなところでもある。どこまでいっても仮面の下に仮面があるだけ。ありのままの自分は無限に後退していくだけである。
 
「自己開示」しながら、「自己呈示」していることの奇妙さ
 
彼女たちは「自己開示」をしているつもりでも、長きにわたって体に染みついた「自己呈示」しかしてないのである。しかしながら、その「自己呈示」こそ演技の本質をズバリ突いているのだ。のみならず、自己の本質をも貫いているのである。

ところで「自己開示」とは、ありのままを見せること、そして、「自己呈示」とは、ありのままを演じることと、ここでは一旦定義しておく。そして、この「自己呈示」から展開する演技術ついて、その続きは明日のブログに書くことにする。

このあとは、「ありのままの自分」の説明を付加して今日はブログを閉じようと思う。

というのは、「ありのままの自分」という言葉が最近かなり間違った捉え方をされていのではないか、それが気になっているからである。少なくとも、僕が使っている「ありのまま」の意味とは大きな開きがある。「本来の自分」という言葉もそうである。

これから、僕の考える「ありのままの自分」の定義を説明しよう。

「ありのまま」とは、中身の入っていない箱のようなもの。すなわち、中身は入れ変わりながらも、その形は少しも変わらない箱自体のことである。僕はそう定義している。

ちがう例を用いて説明しよう。

たとえば、同じ風景を描いても、ゴッホが描くと、燃えるあがるようなタッチの絵になり、ルノアールが描けば、とろけるような絵に、そして、セザンヌが描けば、重厚なタッチの絵が出来上がる。

美術館に展示された凡百の作品群から、ゴッホの作品を見つけることは容易だ。同じことがルノアールにも言えるし、セザンヌにも言えるだろう。

それを個性だという人がいるかもしれない。たしかに個性にはちがいない。個性の生みの親こそ「ありのまま」である。この断定の仕方に違和感を覚える人もいるだろう。ならば、スタイルと言い換えてもいい。スタイルとは、そのニュアンスからして「ありのまま」を洗練したものにちがいない。しかし、「ありのまま」とスタイルは血を分けた兄弟であることに間違いはないだろう。

つまり、「ありのままの自分」もスタイルも、それ自身でありながら、それが作り出した特徴のこと。画家のたとえで言い換えると、その画家そのものであり、その画家の作品に現れた特徴ということになる。

ひと言でいうと。僕の「ありのままの自分」の定義は次のようになる。

「ありのままの自分」とは変換装置でありながら、同時にその変換装置を通過した結果形成された物でもある。私は私という変換装置によって内容は異なれどもいつも同じ私が産出されているのだ。つまり、スタイルに同じ。

to be continued
 
ありのままの自分論(2)
 

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