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ありのままの自分論(2)
ファッションで身を飾るより、スタイルを身につけろ!

2015/4/8 塾長ブログより
 
ファッションとスタイルの違い
 
ファッションとスタイルは似て非なるものである。

ファッションは流行、流行に即した服などを指す。ファションで思い出すのは、「キル」という戯曲である。野田秀樹の作品で、ジンギスカンの戦いを、ファッション業界の攻防に見立てて劇化したもの。ファッションがファシズムのファッショ、服は服従、題名の「キル」は殺す、着るというように、野田一流の言葉遊びがふんだんに盛り込こまれて、誰もがみんなに合わせ世の中の流れに服従している世相を明るく批判している。

対して、スタイルは、「スタイルがいいとか、それが彼のライフスタイルよ」というふうに姿格好や流儀を示す言葉として用いられ、世の中の流れに合わせるという意味は出てこない。むしろ、その人ならではの固有性をあらわしている。
 
ファッションとスタイルを機能として捉え直す。
 
ファッションがありのままの自分を隠すための隠ぺい装置である。スタイルはありのままの自分を手を変え品を変えながら表現する変換装置である。

あるいはこうも言える。

ファッションがありのままの自分と社会との折り合いをつけるための鏡である一方、スタイルはありのままの自分を練り上げて社会と折り合いをつけるための自画像である。
 
昨日の話題に戻る
 
尻切れトンボとなった最後の部分を引用することにする。

「要するに、彼女たちは「自己開示」をしているつもりでも、長きにわたって体に染みついた「自己呈示」しかしてないのである。しかしながら、その「自己呈示」こそ演技の本質をズバリ突いているのだ。のみならず、自己の本質をも貫いているのである」*自己開示と自己呈示の違いは昨日示した。

この続きから始めよう。

この点に気づいてから、僕は彼女たちの演技指導はそれほど難しくはないと考えるようになった。なぜなら、彼女たちに生活の場面を演じさせ、その中から独自のものを発見するように仕向けてやるだけでいいからだ。

場面に応じて自分を演じ分ける術を心得ている彼女らには、余計な演技指導は不要である。稽古ではエチュードといって、シチュエーションを設定してその場面で即興を演じさせる手法が有効だった。
 
演技にシナリオが織り込まれている
 
彼女たちの演技は、たしかに面白い。日ごろ身に着けた自己呈示の仕方、すなわち、場面によって、さまざまなありのままを演じ分ける、主婦ならではのしたたかな関係調整の術に惹き込まれ、過剰ともいえる身振りにも思わず笑みがこぼれてしまう。しかし、彼女たちのノリのよさに、ごまかされてはならない。その多彩で無駄も多い身振りの中から、演出家の目を通して、魅力の核となる部分を見つけ出し、ピックアップしたうえで、彼女たちに問いかけるのである。この場面で「なぜそうしたのか」を考えさせるのである。

彼女たちは自分の演技を振り返り、問いかけに対して答えを探しはじめる。みんなでシェアーする。ああだこうだと言い合っているうちに、言い回しはもとより、表情、声色といった非言語表現にまで意味がつけられていく。台本を解釈して演技をつくるのとは逆に、ある仕草のひとつをみんなで解釈することで、ふと出てしまった身振りに意味が生じる。当人も自覚できない深部まで分け入ってはっと思い当たる節に出会う。そうして、ある場面の心理シナリオが出来上がるのだ。
 
自己呈示が演技に変わる
 
もっとも、この作業が、彼女たちが無意識に演じ分けるありのままの仮面=自己呈示を意識化させ、余分なところをそぎ落とし、自らの演技スタイルを練り上げていくうえで重要な稽古であるのは言うまでもない。日常的な「自己呈示」が演劇的に「自己開示」され、深みを持ったシンプルな演技にブラッシュアップされる。ありのままがスタイルとして機能し始めるためには必要不可欠なプロセスなのである。

演技術の方法論を述べたが、それは演技に限ったことではない。自己呈示という自己表現法によって、日常的にありのままを演じながらその人ならではスタイルにまでもっていく方法論でもある。

注記を付すと、主婦であれば誰もがありのままの自分をさまざまに演じ分けるような「自己呈示」ができるわけでもないだろう。演じることが好きな主婦たちが集まったサークルだからこそ言えることである。

しかしながら、「自己呈示」は彼女らに限ったことではではない。「自己開示」はたしかにあやしい。が、「自己呈示」については誰も普段からしていることである。

to be continued
 
ありのままの自分論(3)
 

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