ホーム >塾長ブログ >小豆島愚放塾 > 塾生募集 >ありのままの自分論(3)

 

ありのままの自分論(3)
ありのままの自分は決して見えない!

2015/4/9 塾長ブログより
 
「ありのままの自分」とは何か?
 
場に合わせ相手に応じながら「ありのままの自分」を出すことは不可能なのか。

そんなことはない。「ありのままの自分」を受けれてくれる場があり、相手がいたなら「ありのままの自分」を自由に表出できる。そう考える人も多いだろう。

だが、「ありのまま」という言葉を生来の性質と解釈するなら、上述の論理は破たんする。生来の性質が純粋自然で人の手の入ってない性質を指すならば、場に合わせ他人に応じて「ありのままの自分」を出すこと自体が矛盾だからである。天然自然の性質のままでどうやって他人の気持ちを慮ったり、場に合わせたふるまいができるのだろうか。

そもそも一体何を指して「ありのままの自分」というのか。

いくら探しても「ありのままの自分」は漠としてその輪郭もはっきり見えてこない。僕にはよくわからないというのが正直な感想である。

ひとり部屋にいて好き放題している自分が「ありのままの自分」なのだろうか。

たとえ一人でいても、無意識のうちにさまざまな禁制が働いている。すでに幼児のようにふるまうのは不可能になっていることに気づくはずだ。ひとりでいて自由であるにもかかわらず、親や学校で躾けられた規律の沁み込んだ身体がごろんと横たわっている。場に合わせ相手に応じてしまう身体が歴然としてある。
 
「ありのままの自分」とは幻想?
 
よくよく考えてみれば、「ありのままの自分」とは絶対的なものでもなければ、根源的なものでもないだろう。むしろ、玉虫色の色彩を帯びたものではないだろうか。

言いたいこと、したいことが押さえつけられてできないときに真っ赤に染まった顔がそうであり、取り繕って虚飾をまとっている姿を否定する鈍色の顔であったり、あるいは、人目を気にして陰に隠れる青白い顔、人と比べて恥ずかしさにぽっと上気する顔など、その折々に決して外に出せないがゆえに様々な表情となって内面を彩る顔、それが「ありのままの自分」なのではないのか。

他人や世間との関係性から自己抑圧が働いたとき、その抑圧されたものを指して「ありのままの自分」と言うのではないだろうか。

いやがうえにも他人の目を気にし常に評価にさらされて言葉を控えたり行動を抑えたりして生活している人は多い。もし人目や世間を気にすることなく「ありのままの自分」を出せたらさぞかしすっきりするだろうという思いは誰しも持ったことがあるだろう。

とすれば、抑圧に対する反動形成によって「ありのままの自分」があるという幻想を生み出してるのではないのか。「ありのままの自分」が確固として存在するかのように思い込んでしまっているだけではないだろうか。
 
「ありのままの自分」という自己呈示のあり方
 
「ありのままの自分」などない。そういってしまえば、たしかに身も蓋もないだろう。いまこうして書いている自分とは一体何者だ…いささか哲学的な議論になってきそうなのでやめておこう。しかし、はっきり言おう。「ありのままの自分」など存在しないのだ。「ありのままの自分」だと思っているのは、関係性の抑圧が生んだ幻想でしかない。その時々で内面に現れては消える「あるがままの自分」が存在するだけである。

その一方で、先に見てきた演劇サークルの主婦たちの自己表現に「ありのままの自分」が宿っていた事実を否定することもできない。彼女たちそれぞれの「ありのままの自分」が生き生きと現前する姿を見たのだ。

なるほど彼女たちは実生活のさまざまな局面で他人との関係を切り結びながら、したたかに「ありのままの自分」を演じる仕方を鍛えてきたのである。

「ありのままの自分」という根源的な自分はどこにも存在しない。彼女たちのように、関係性の抑圧を上手にいなして、したたかに自分を押し出す「自己呈示」の方法を身に着ければ「ありのままの自分」を演じることは可能になる。結論を先取りして言えばそういうことだ。
 
複数の自己イメージを操る
 
自分とは、どこまでいっても自他関係の結節点でしかない。自分とは、世間を含めた他者との協働作業によってつくられる。それを自己イメージと呼んで差支えない。独りよがりの自己イメージは存在しない。つねに自己イメージは、他者と共有物である。

たとえば、僕が公衆の面前にいきなり立たされたとする。思わず肩に力が入り緊張が走る。無理からぬことである。夥しい視線に身がすくみ、イメージ通りのふるまいができない。そのとき僕は、自我崩壊の危機を感じて心臓が早鐘を打ち鳴らす。そして、実際なんども自我が崩壊した。

しかし、自我が崩壊するわけではない。いままで自他関係によって築かれた自己イメージが壊れただけである。けれども、自己イメージを固定的に捉えている者にとっては致命的な傷になりかねない。

演劇サークルのメンバーの主婦たちの強みは、自己イメージを複数持っていることにある。場面々々によってその場にふさわしい自己イメージを他者と共有できる柔軟性を持っていることである。どんな場面に遭遇しても、経験豊かな引き出しからその場に相応した自己イメージを選び出して呈示する。だから、あたかも「ありのままの自分」を表現しているかのように自分を演出できるのである。
 
「ありのままの自分」を演じる
 
僕が見る限り、彼女たちには「ありのままの自分」ひとつに拘泥することもなく、複数の「ありのままの自分」を演じ分けている。そうでありながら、彼女たちは唯一無二の「ありのままの自分」の存在を決して疑わない。

なぜか。

おそらくは、彼女たちがいつも「ありのままの自分」を演じているからだろう。もう少し踏み込んでみる。つまり、「ありのままの自分=自己イメージ」を演じさせている自分そのものを彼女たちは「ありのままの自分」だと信じて疑わないからである。

そういう観点から、僕は「ありのままの自分」を考察してきた。

要するに、「ありのままの自分」とは、その時々の関係性の中で、その場にふさわしい自己イメージを呈示する装置である。言ってしまえば、その場に最適化した自分をねつ造する変換装置である。

そして、「ありのままの自分」というこの変換装置を練り上げて、その人ならではの「スタイル」に洗練されていくのである。もちろん、スタイルも変換装置であることに変わりはない。

to be continued
 
ありのままの自分論(4)
 

ホーム >塾長ブログ >小豆島愚放塾 > 塾生募集 >ありのままの自分論(3)