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ありのままの自分論(4)
「ありのままの自分論」は火急の問題である!

2015/4/10 塾長ブログより
 
「自分探し」の危険性
 
僕がここ数日来書き続けていることは、「『ありのままの自分』を取り違えると酷い目に会うよ」という、ある意味、警鐘。自分を探しに出かけてそのまま自分という迷路に入り込んで失踪してしまいかねない。僕はそのことを危惧している。

「自分とは何か」という問題は、人生を真剣に考えるとき避けては通れない。だからこそ、「ありのままの自分」を通りいっぺんの理解で、分かったつもりになってほしくない。「自分とは何か」を問うことは「ありのままの自分とは何か」を考察するに等しいからである。

「ありのままの自分」をじっくり考察し深く理解することは、周囲に合わせることを暗然と強要してくる最近の風潮に対して、主体性を喪失したり、自分を見失ったりすることから自分自身を守ってくれるはずである。
 
閉鎖社会の居心地の悪さ
 
島国であって村を共同体の最小単位としてきたこの国は遠い昔から同調圧力の強い国であった。村は解体されても、その日本人特有の心的構造は先祖返りするかように若者たちの間で甦り猛威をふるっている。不登校をはじめニート、引きこもり等の社会現象の遠因となっている。

実際、塾生の悩みに日々耳を傾けながら、あるいは先日愚放塾を見学に訪れた若者の話を聞くにつけ、他人の視線を怖がる若者が増えていることをひしひしと感じている。そこからは、僕らの世代が人目や世間体を気にした以上の、何とも言えない居心地の悪い不安を感じ取ることができる。
 
ハイレベルな感性
 
数年前に「KY」という言葉が流行った。2007年の流行語大賞にエントリーされ大いに注目を浴びた語である。言うまでもないと思うが「空気が読めない」という意味である。この「KY」が流行るかなり前から、そして、その後もいまに至るまで、若者たちの間では、仲間と付き合ううえで「場の空気を読むこと」が最重要課題になっている。

それにつけても「空気を読む」とは外国人には理解できない奇妙な日本語であろう。
「空気は吸うものではないのですか。目に見えない空気をどうして読むことなどできるのでしょう、私には理解できましぇーん」

もちろん、空気とはその場に流れている暗黙了解のことである。したがって、仲間から「KY」と言われたら、場の雰囲気を壊した鈍感な人間として非難されたことになる。とはいえ、この空気を察することは結構難易度の高い技ではないだろうか。
 
空気を読むことの是非論
 
2005年に書かれた秋月高太郎の「ありえない日本語」のなかに次のような件がある。

ある17歳の高校生は、学校で「空気を読めよ」という言葉をよく聞くと言う。そして、「なるべく空気を読んで最悪のパターンだけは避けようと思う」と言う。彼が言う「最悪のパターン」とは、まさに、他人に「うざい」と言われたり、思われたりすることであるといえよう。今日の若い人々は、常に「うざい」と言われたり、思われないように「空気を読み」ながら、コミュニケーションを行っているのである。年長世代の人々は、若い世代の人々に「うざい」と言われて腹が立つと言った。しかし、それは若い人々にとっても同じである。彼らは、自分が他人を「うざい」と思うことがあるように、自分も他人から「うざい」と思われる可能性があることを知っている。彼らが「空気を読む」のはそのためである。彼らにとっても「うざい」は相当キツイ言葉である。「うざい」はファイナル・ワーズであり、それを言ったことで、コミュニケションはしばしばそこでストップしてしまうだろう。

「空気を読む」ことの是非については意見の分かれるところでもある。否定的な意見ばかりではなく、肯定的な意見もある。そのひとつの例として次のような見解がある。

空気読むことを自覚的に上手に活用する技術が今求められている。場の空気を否定的に捉えるのではなく、積極的に「間」の働きとしてとらえる姿勢が、日本のコミュニケーション文化を、むしろ国際化におけるコミュニケーション文化に高めることになる。そのコミュニケーション論を深めていくことが、グローバル化においては有効だというものだ。
 
KYのルーツ
 
しかしながら、一見自由闊達に見える女子学生でさえ、いや、女子であるがゆえか、先に挙げた日本人の心的構造をずっと引きずっているように思われる。実は「KY」もギャル語のひとつであった。

いまから20年ほど前、90年代に女子高校生にルーズソックスという厚手のだぶだぶの靴下が大流行したことがあった。今は影をひそめたがその流行は10年近く続いたように覚えている。

下着が覗くほどたくしあげて短くしたスカートに日焼けした黒い脚の、その足元にだらしなくたぐまっている白い靴下。ルーズソックスと呼ばれたその靴下を履いて街中に群れをなしている彼女たち。僕ら世代の美的感覚からすれば疑問符をつけたくなるようなファッションを彼女らはなんの衒いもなく堂々と身につけ着こなしていた

そんな彼女たちを僕は遠くから眺め遣りながら、「どうしてみんな同じ格好で、同じ靴下を履いているのだろうか」、そんな思いに駆られたものだった。「違う靴下を履いた女学生がもっといていいはずじゃないか」と感じた。

折よく社会学者の宮台真司氏が女学生にインタヴューしたレポートのなかにその答えがあったのを覚えている。

彼女たちひとりひとりがルーズソックスをいいと思ってはいているのではなく、履かないと仲間から弾かれてしまうから仕方なくしているのだという女子高生の生の声が載っていた。

そこには上述の男子高校生が場の「空気を読む」ことに神経をすり減らしているのとまったく同じ心的構造が伺えるのであった。
 
議論を徹底的にする覚悟
 
最近はその反動としてか、「ありのままの自分」を賛美する風潮がある。しかし、このおいしそうな言葉に安易に飛びつくと痛い目を見る。ありもしない幻想に取り込まれることになって、さらに自分を失う結果となってしまう危険性がある。その危険と対峙して自分と向き合い、「ありのままの自分」とは何かをとことん考え、その本来の姿を抉り出してほしいのである。

僕の考える「ありのままの自分」について、その詳述は昨日のブログに記した。異見や異論もあると思う。「ありのままの自分」の議論を俎上に載せ、意見交換をすることは、その是非よりも、むしろ重要だとも思っている。その過程で「ありのままの自分論」は現代の若者への生きるヒントを多分に含んだ議論として機能するからである。忌憚のない批判はむろん歓迎である。

自分とは何か、何者かが分からなくなり悩んでいる若者が多いと聞くにつけ、現代社会において自我論は火急の問題である。僕は自らの経験をベースに考察した「ありのまま自分論」を、できれば皆さんとともに開かられた議論として、もちろん僕一人であっても、さらに展開していくつもりである。

to be continued
 
ありのままの自分論(5)
 
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