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ありのままの自分論(7)
自分と思い込んでいるその自分に線引きする!

2015/4/13 塾長ブログより
 
結局は同じところを回っている
 
ここ30年ほどの若者コミュニケーション文化の変遷を見渡してきた。ひと世代上である僕も同時代を生きてきたが、その間の社会のめまぐるしい変化には正直驚かされる。この10年でも世の中がIT一色に染め上げられて隔世の感がある。

1980年代初頭から2000年にかけて、「むかつく」とか「うざい」とった鬱積した感情を放擲するような言葉で表現した若者たちにはまだ荒々しさが残っていた。それがどうだろう。

2000年を過ぎてIT革命と歩調を同じくするように、場の空気を読むことに過剰に反応して身をすくめている若者たちが現れる。嫌悪しながらも寄り添うことを余儀なくされ、場の雰囲気や人の顔色を察することに汲々としている。自分の感情すらも置き去りにしてしまう。

鬱屈したエネルギーはむしろ増大しているはずだが、当時の若者たちは羊の群れのように従順だ。その溜ったエネルギーはかつてのようにはけ口を求めて「きれる」ようなことはなかった。

キャラという仮面の中に逃げ込んでいく。キャラを被りそのキャラを演じる方法によって負のエネルギーの新たな放出路を見出すのである。若者たちは苦肉の策であったとしてもキャラ化によるコミュケーションの方法はひとつのプロトタイプにまで引き上げられた。僕はそれを進化ととった。

しかし、問題が解消されたわけではない。ここ30年間の若者のコミュニケーションの歴史を3段階に区分して、ぼくは、それを進歩と呼んだにすぎず、見えにくい核の部分は手つかずのまま見過ごされている。

早い話、一見、うまい手を見つけたように思えるキャラ化コミュニケーション手法であっても、それが新しいのか古いのか不分明である。自分をあるキャラに仕立てて居場所を確保したり、場と溶け込もうとしてキャラを演じることは、僕の指導した演劇サークル主婦の例を見るまでもなく決して新しいわけではない。

もっとも、彼女たちはキャラをわざわざ拵えるまでもなく、いわば自己呈示という方法で自己を演じている。

ところで、このキャラ化によるコミュニケーションは若者をふた手に分けることになった。

いったん認知されたキャラは容易に脱ぐことができず、自分とキャラとの遊離に苦しんでいる若者。彼ら彼女らはキャラという自己呈示によって少なくとも場を取りなすことができたが、置き去りにされた自分の自己開示を求める声に苦悩している。

かと思えば、自分を着せ替え人形のように場や相手に応じてさまざまなキャラを取り換えてはうまく人間関係を処理している若者もいる。この若者であっても、いつかは自分の自己開示を求める声にハッと気づくときがやってくるかもしれない。

いずれにしもキャラ化コミュケーションは自分とは何かという根本問題には答えていないことになる。

その理由は簡単である。すでに見たように、キャラを被ることによって上手く関係がとれ一時は姿を隠していた「ありのままの自分」が、キャラという類型化の行きすぎた仮面に反発して、あたかも亡霊のような形で甦ってくるからである。

しかしながら、ある場面でキャラを演じている若者であっても、キャラに全面的に依存した生活をしているわけでもないだろう。家族や親しい間柄、あるいは見知らぬ相手や形式的な場においては、わざわざキャラを被る必要もない。

とはいえ、誰もがキャラを脱いで素顔でと言うわけにもいかないだろう。自己呈示にはちがいない。親しさの度合いによって自己呈示の割合が変化するだけである。自己呈示といったキャラを外した素顔という仮面で過ごしている時間のほうが長いのではないだろうか。それが実際だろう。
 
実は、使い古された手法
 
キャラを外したところでそこには素顔というもう一つの仮面があらわれてくるだけである。これからの議論はおおむねこの線で進んでいく。

キャラを被ろうが、脱ごうが、誰もが日常で少なからず演技している。自分にとって、あるいは、相手にとって望ましい印象を与えるように意図的、あるいは無意識のうちに振る舞っている。

たとえば、生徒としての僕、彼女としての私、子供としての僕、患者としての私といったふうに、それはキャラをつけるまでもなく、社会的な役割をベースとしていやがうえにも自然発生的につくられる。

その流儀は、人間関係から生じる葛藤を役割によって解消する生活の知恵であり、はるか昔から行われてきた演技術である。

演劇サークルに参加した年配のご婦人方を観れば、もちろんワークショップでエチュードを楽しんでいる彼女たちの姿から想像した推定の域を出ないが、彼女たちは生活の、その時の状況々々で自由に演技を楽しんでいるように見える。若者たちに見られる自己呈示と自己開示の葛藤のようなものが見られないから不思議である。

たしかに立場上さまざまな役どころをこなす主婦の彼女たちにも、キャラを被った若者と同様に演技疲れの、多大なストレスにさらされているかもしれない。それはたしかである。

しかし、彼女たちはしたたかにしなやかにその溜まったストレスや負の感情を発散させる方法を持っている。それもやはり演技によるのである。

「井戸端会議」は死語になって久しいが、所を変え、その役割は生き延びている。犬を連れた公園で、買い物ついでのスーパーの付近で、ゴミ収集日のゴミ捨て場で、彼女たちがさまざま情報交換をしている光景を目にする。

おそらく話題の中心は憂さ話にはちがいない。表情や声色からそう見受けれる。彼女たちは互いに憂さを吐き出し、互いに親身に聞き流す。親身といっても決して深入りしない。

もし下手に深入りしてしまうと、かえってその後付き合いが気まずくなるのを承知の上である。親身に聞くという顔をしてその場を適当に済ませ、互いに溜まった感情を吐き出しているのである。

彼女たちは、ここでも「フリ」をするという演技している。その相手の言葉を親身に聞くという演技によって相手のストレスを解消している。悩みを打ち明けるときであっても彼女たちは演技をする。つまり、聞くほうは親身というフリの演技、話すほうは真剣というフリの演技をするのだ。

むろんのこと、彼女たちの百戦錬磨の演技術は、真剣に腹を割って話し合う時は惜しみもなく本心をさらけだす。が、これとて数あるうちの演技の引き出しにすぎないのである。演技という仮面の下にまた仮面があり、彼女たちの素顔はいくらはがしても玉ねぎのように仮面があるだけである。

ここまで書くと、「世間のどこを探せばいるのか」という疑義を挟んでくる人もいるだろう。だが、有り体に言ってしまえば、僕の「ありのままの自分論」を担うべきペルソナにはちがいない。

しかし、すくなくとも若者のようにキャラをつけたばかりに感情をため込んでにっちもさっちもいかなくなるようなことは決してありえないのである。
 
決定的な違いが明らかになった!
 
若者において、キャラをつけようが、そうでなかろうが、日常の生活全般において、大なり小なり演技はしている。僕の見る限り、それは演技というより、そうさせられている感じがする。

キャラをつければ、そのキャラの類型化された単純なパターンに従わされ、キャラをつけなくても相手の思惑を先取りしてその思い込みによって動かされているような印象を受ける。実際、若いころの僕がそうだった。

そうしているうちに、思うに任せぬ自分が「ありのままの自分」という幻想を伴って内面の中央に鎮座するようになって、「ありのままの自分」を追い求める心性にくるまれてしまうのだ。

年配の主婦たちのように、場に合わせ相手に応じてさまざまな役柄を演じ、あるがままに自分を演じながら、ありのままの自分を決して見失わない生き方、そのコツはどこにあるのだろうか。

そのためは「自分」と思い込んでいる従来の線引きを変える必要があると思うのだが、いかがだろうか。

その点については、第9回「集団の抑圧からの解放は意外なほど簡単!」で書こうと思う。

to be continued
 
ありのままの自分論(8)
 
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