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ありのままの自分論(9)
集団の抑圧からの解放は意外なほど簡単!

2015/4/15 塾長ブログより
 
田舎の付き合い方
 
地方育ちの僕は小さい頃から田舎の人たちの付き合い方を見てきた。

「村」は閉鎖的な社会である。世話好きで人情がある半面、何世代も前からの関係をずっと引きずって罵り合い、各家で抱える家庭事情は周知の事実として公然の秘密とされた。その濃密な関係性に縛られながらも、その閉鎖性は必ずしも息苦しいというわけではない。立て付けの悪い古い家のように至る所から隙間風が吹き込んできた。

幼な目には近所の人たちが気ままに見えた。その印象は事ある毎に話題に挙げてきた演劇サークルの主婦たちの奔放さと似ている。むろん洗練さはない。無骨である。人々は身を乗り出すようにして相手と関わり、衒いも気取りもなく関係を取り合っている。

幼い子であっても、近所のおじさん、おばさんは如才なく声をかけてくれる。悪さをすると血相を変えて怒る。追いかけてきたりもする。祖母の茶飲み友達が縁側に座ってひとしきり嫁の悪口を言って帰る。その嫁となかよく野良仕事をしている姿を見かける。飲んだくれてさんざん悪態をついた幼友達の父親が翌朝にはケロッとして我が家の屋根の普請をしている。

村の人たちはその湿潤な人間関係の抑圧のなかでも、自分を窮屈にしない処し方を身に着けてきたのではないだろうか。
 
無数の要素からなる関係の複合体である
 
いまや「村」は消えた。世の中は自由になった。しかし、そんな現代社会で仲間とのコミュケーションの仕方に息苦しさを感じている若者の多いことに少なからず驚いた。

あたかも「村」のように、そして村人よりもずっと鬱屈して、その閉塞禍に苛まれている若者たちの実情が分かってくるに従って、僕にふとして兆した違和感が次第に心の中心を占めるようになってきた。「ありのままの自分論」は焦眉の急と化した。

僕は戦後からほぼ10年後生まれ、民主主義の教育を受けてきた。しかし、どうだろう。戦後民主主義が目指したような個人は実現したのか。

20世紀の激動を駈け抜けてきた世代として苦しみ悩み、そして今はっきり言えること、それは教育現場で教わった個の確立のようなものは幻にすぎないということだ。教育に騙され、教師の自己欺瞞にしてやられ、社会の要請に翻弄された犠牲者は僕らの世代だけではない。

自分とは何かをずっと考え続けてきた一人として、これだけは言える。

そもそも個人とは分割不可能な実体ではない。個人は無数の要素からなる関係の複合体である。

生活の折々でその関係網の結節点に明滅する無数の自分は、実のところ判然としない自分でもある。いわば、自分とは自分の断片の集合でありながら決して総合できないような代物。多くの若者が「自分探し」に出かけて迷子になってしまうのは、その自他の融合した深部に触れて自分が分からなくなってしまうからではないだろうか。
 
ポリフォニー論
 
ここで思い起こされるのが、「ポリフォニー」という言葉である。本来は音楽の用語なのだが、僕はバフチンの「ドストエフスキーの詩学」において初めて出会った。いわく言い難い衝撃があった。

バフチンによると、「ポリフォニー」とは、ドストエフスキー自身の内面の複数の個がその分身として、彼の小説の登場人物して描かれた事態をいう。

念のため、引用しておく。

それぞれに独立して互いに融(と)け合うことのないあまたの(=多くの)声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー(注:多声楽)こそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。

彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。

実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自(みずか)らの言葉の主体でもあるのだ。したがって主人公の言葉の役割は、通常の意味の性格造型や筋の運びのためのプラグマチックな(=実用的な)機能に尽きるものではないし、また(例えばバイロン(イギリスの詩人・劇作家)の作品におけるように)作者自身のイデオロギー的な(=独善的な)立場を代弁しているわけでもない。

主人公の意識は、もう一つの、他者の意識として提示されているのだが、同時にそれは物象(ぶっしょう=物的現象。)化され閉ざされた意識ではない。すなわち作者の意識の単なる客体ではないのである。この意味でドストエフスキーの主人公の形象(けいしょう)は、伝統的な小説における普通の客体的な主人公像とは異なっているのである。

ドストエフスキーはポリフォニー小説の創造者である。彼は本質的に新しい小説ジャンルを作り出したのだ。それゆえ彼の作品はどんな枠にも収まらない。つまり我々が従来ヨーロッパ小説に適用してきた文学史上の図式はいずれにも当てはまらないのである。

                                                   
現代という時代に突きつけられている課題は、戦後民主主義が歌い上げたような個の確立でない。もとより、社会や集団に抑圧された個人を解放することでもない。もはや明らかだろう。
 
「ありのまま自分」と決別
 
ここまで若者のコミュニケーション禍についてかなりの紙面を割いて語ってきたのは、いまだに個人の解放、その延長線上で解決がなされようとしている現状に対して想い半ばを過ぎるものがあったからである。しかも「ありのままの自分」という幻想が亡霊のように消えたと思えば立ちあられて、その問題の核心を一層見えづらくしている点についても同様の思いに駆られたからである。

この時代において集団はリアルな現実ばかりではない。言うまでもなく、ネットにおけるバーチャルな現実も含まれる。現実の場を離れてもモバイルによっていつもつながれている若者たちは電脳環境に取り込まれてもう逃げられないところまで来ている。

解放は不可能、だから、抑圧された個人を解放することではない。そういっているのでは決してない。その点を取り違えないでほしい。ここまでの議論が背中を向けてしまうことになる。
 
論点を整理する
 
自分とはなにか。繰り返そう。「自分」とはひとつの実体のような形で存在するのではない。そうではなく、場といった不可視な他者も含めて自他関係の網の結節点に無数に存在する小さな個の総体である。したがって、集団の抑圧からの実体としての個人を解放しても意味はない。

ネットを介して人間関係はより不可視な度を強めている。ネット社会にあって「自分」は無数の個の総体であることがより理解されよう。「自分」のひとつひとつがまさにネット端末で明滅するような存在となっている。その網に絡めとられて気息奄々としている若者たちを救済するためには、社会集団から抑圧された個人を解放するような方法ではもはや解決できない。

そういっているのである。

だから、解放の意味を根底から変えなくてはならない。小さな個の総和をひとくくりに纏め上げている個人、その個人自体が抑圧している個を解放すること。そのように解放の意味に変えなければならないのだ。
 
解決策は意外に簡単
 
「自分」を画する輪郭線を変えるだけでいい。内面、外面という従来の線引きを無効にして、すべての心身の現象を表面の出来事とするのである。

心から生じたことがすべて内面に現れる、身体を通して生じたことがすべて外面に現れる、心と身体という内外の区別を無効にして、「自分」というひとつの平面に置き換え、そこで生じた無数の自分の出来事と捉えるだけでいい。たったそれだけのことである。これで、「自分」という個人から、無数の個という「小さな自分」を解放した手続きを取ったことになる。

そして、自分というひとつの平面に現れる無数の自分を、そのすべてを無条件に肯定する、それだけでいい。

昨日、取り上げたリンビルの議論にも通じる。

ところで、演劇サークルの年配の主婦たちのように、場に合わせ相手に応じてさまざまな役柄を演じ、あるがままに自分を演じながら、ありのままの自分を決して見失わない生き方、そのコツはどこにあるのだろうかという問いに対する答えも、拍子抜けするほど簡単である。

to be continued
 
ありのままの自分論(10)
 
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