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ありのままの自分論(10)
「自分を知り、自分が変わる」自己変容エクササイズ

2015/4/16 塾長ブログより
 
自己解放するとは?
 
今日は、自分という枠組みを変え、新たな自分を見出す作業を、ひとつひとつステップを踏みながら習得していく。自己変容エクササイズである。

まず自己解放の定義から述べよう。(詳細は昨日のブログを参照)

「自分」という個人から無数の「小さな自分」を解放する。それは、感情や感覚、想像、思考等心的事象のすべてを、言動のような身体的な事象と同列に扱うことを意味する。そして、「自分」という平面に起こるすべての出来事、すなわちこの無数の「ありのままの自分」を無条件に肯定することである。

ここでは、ひとまず価値は持ちこまないことにする。

どうすればいいのか。

たとえば邪悪な感情や嫌悪するような考えが浮かんできたとしても、あるいは、人前で失態を演じたり、重大な過失を犯したとしても、その個々すべてを自分だと認め肯定する。それは倫理的な問題とも責任の問題ともかかわりがない。自分という平面に生じた出来事としてただ事実として「自分」と肯定するだけである。善い悪いの価値判断を一切持ち込まずに、ありのままの事象として肯定する、それを徹底するのだ。

しかし、禅の修行者でもない限りそれで済ませられるわけがない。凡庸な心には遅かれ早かれ世俗的な価値が降りてくる。価値判断を盾にああだこうだと非難がましく責め立てる声が堪えきれずにわめき出す。

そこで、もう一つの手続きが必要となる。

この偉ぶった声も「小さな自分」として同列に扱うのである。上段から見下して言い立てたとしても、その声を優位に置かないことである。「ありのままの自分」として肯定するだけである。

自分という平面にあらゆる「小さな自分」を同じ身分で置き、そこを裁判官のいない法廷とする。いや、議長のいない国会のほうがいいかもしれない。いずれにしても、それぞれの自分がそれぞれの言い分を主張し合う場にする。喧噪極まるかもしれない。激しい言い合いになるかもしれない。「小さい自分」たちによる直接民主制が展開されるのである。

ひとしきり議論が終わればそれぞれの場所に戻るはずである。「ありのままの自分」同士がつながる。お互いがつながってある関係が出来上がる。決着とまでとはいかなくても、一定の方向性は見えてくるはずである。
 
舞台という装置を活用する
 
つぎにもう一段高い手続きに入ろう。

場に合わせ相手に応じてさまざまな役柄を演じ、あるがままに自分を演じながら、「ありのままの自分」を決して見失なわないあり方、このコミュニケーションの方法を実現させるには、どうすればよいのか。

舞台という装置が必要。いわば演劇メッソドである。演劇とはいうものの、驚くほど簡単である。

たとえば、人前に出ると緊張して体がいうことを聞かずにくねくね動いたり舌が回らずしどろもどろ、頭は真っ白、そんな無様な状態に陥って、みんなに笑われ恥ずかしい体験をした挙句、人前に出ることに恐怖を覚えるようになってしまった、かつての僕のような人がいるとする。かりにAと呼ぶことにする。

まず上述の手続きを踏んだうえで、Aに人前で上手に話す人を真似するように指示を出す。

舞台であるからには当然観客がいる。だが、この観客は自分も舞台に上がらなければならない。俳優にもなる観客である。すなわち、観客は俳優になり、俳優は観客でもある。互いに見せ合うという信頼関係が築かれている。互いに支え認め合う仲間でなければならない。

そういった条件が整ったなかでAは舞台に立ち、上手に話す人を真似し出す。

はたして何が起こるか。

Aは上手に話す人を真似しようとしてもうまくできない。人前恐怖症のAは緊張のあまりいつもの癖が出てしまう。体はくねくね、言葉はしどろもどろ、観客から思わず笑いが漏れる。爆笑の渦になった。顔を上気させ戸惑っているAに、僕はオッケーマークを出して安心させ、演技を続けるように指示を出す。

ここにはトリックが潜んでいる。二重の仕掛けがある。

自分から出てくるすべての事象、たとえばくねくねした仕草、しどろもどろの声、すべては「ありのままの自分」である。それらはすべて肯定されるべき事柄である。個人という実体からの解放について、Aはすでに習得済みである。だから、指示に対して受け入れ続けることができたのである。

しかもAは舞台の上に立っている。いつもどおりの癖が出た。としてもそれは演技である。演技としてのくねくねした仕草、しどろもどろの口調。人前で上手に話している人の演技をしながら、決してそうは見えない人の演技をしているのだ。
 
道化の演技
 
上手な人を演じようとして下手な人を演じて笑われる。道化師の業をAは何の努力もなくやってのけたのである。舞台俳優としては気分の悪いわけがない。演技を終えてAは観客から大きな拍手をもらう。

同時に、その演技をしている自分を顧みた時、ハッと気づくことがあるだろう。演技をしている自分も、「ありのままの自分」にはちがいないのである。

タイミングを見計らって、僕はさらにAに指示を出す。

「今度は人前に立つのが苦手な人の演技をしてみてくれないか」と。

ふたたび舞台に立ったA、こんどは自分の真似をしはじめた。人前に立って緊張で汗浸りになっている恥ずかしい自分の仕草を真似している。観客から笑いが起きない。すこし苛立ったAは、もっと大げさに自分の真似をする。演技をデフォルメしてアクセントを加える。

そのとき、Aはすでにいっぱしの俳優になっている。舞台に立って笑われることに快感を覚え、笑わせようと躍起になっている。Aは気づかないままにいとも簡単に自己変容を成し遂げてしまった。恥ずかしい自分は消えて、恥ずかしい自分を演じている自分が、舞台という場所で出現したのである。

たしかに、人前で思わず顔を真っ赤にしている恥ずかしがっている自分も、舞台に立ってみんなを笑わせようとして無我夢中になっている自分も、そのどちらも「ありのままの自分」には変わりない。しかし、舞台という装置の醍醐味はそこにはない。その真骨頂は、そのふたつの「ありのままの自分」に切れ目を入れることにある。
 
自分に切れ目を入れる
 
舞台という装置によって、それぞれの「ありのままの自分」が、「舞台に立つ主体」としての自分と、「その演技をする主体」としての自分との、二つに分かれるのである。

舞台の主役として汗顔の至りで無様な役をしているのは「あるがままの自分」である。そして、かつての自分の真似をして一所懸命恥ずかしい自分を演じる主体は「原自」である。(この「原自」はあるがまの自分を生み出し、あるがままの自分を演じさせる働きがある。そのことについては明日、説明しよう)

こうして「ありのままの自分」の階層づけが行われた。

ここに、場に合わせ相手に応じてさまざまな役柄を演じ、あるがままに自分を演じながら、ありのままの自分を決して見失わないあり方が成立したことになる。

ともあれ、ドフトエフスキーが自分の中に複数の個性を見つけて、それを小説の中で多種多様な人物に造形していったように、解き放たれた「ありのままの自分」がいろんな人物として役柄をこなすのである。それを操っているのがいま定義した「原自」である。

そういった自己表現のメカニズムを露わにさせるのが舞台という装置なのである。

to be continued
 
ありのままの自分論(11)
 
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