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ありのままの自分論(11)
人間は無人島にひとりでいても演技する、本当か?

2015/4/17 塾長ブログより
 
「ありのままの自分」の正体とは?
 
「ありのままの自分」はきっとどこかにいるにちがいない。そう確信して、熱に浮かされたように血眼になって探したところで、きっと煙に巻かれしまうだろう。「ありのままの自分」は漠としてつかみどころがない。

「ありのままの自分」の正体とは?

普通に理解すれば、気ままに伸び伸びとふるまっている程度の自分のことを指して「ありのままの自分」と言うのだろう。それ以上でもそれ以下でもない。「ありのままの自分」に過度の期待を持つのは危険だ。真剣に「ありのままの自分」を探そうとすればラビりンスに迷い込んでしまうことだろう。密かに隠れている「本当の自分」などではない。

僕もたしかに「ありのままの自分」という使い方をしてきた。だが、「ありのままの自分」を実体化したことはなかった。ひとつの作用として解釈してきた。

次のような意味合いにおいて「ありのままの自分」を用いてきたのである。

「ありのままの自分」とは無数の「ありのままの自分」を産出するとともに、「ありのままの自分」を演じさせる作用である」と。
 
「ありのままの自分」を「原自」と名義変更する
 
分かりにくいことは承知の上だった。しかし、ありのままの自分」という言葉が世間の風潮に乗って「ありのままの自分になるの、レリゴー、ありのままで飛び出してみるの」と夢を運ぶ言葉のように使われていることにいささかの危惧を抱いた。「飛び出してみたものの、それが蜃気楼だったらどうするるんだろう。折からの強い風に巻かれて墜落なんてならければいいが…」と、この言葉の誤解を解こうとしたのがそもそもキッカケだった。

分かりにくさに加えて、ますます混迷の度を深めてしまった。そんな折、知人から次のような的を射た忠告を受けた。

「ありのままの自分」という言葉は、従来のイメージが強すぎて、いくら新たな解釈を示しても、その入り口のところで躓いてしまうよ」と。

その通りだ、素直に従うことにした。

そこで「ありのままの自分」を「原自」という言葉に換えた。そうして議論を進めていくことにしたのである。
 
「原自」の機能
 
「原自」について説明する。

「原自」という呼び名は、「原元の自分」というほどの意味で付けた。

「原自」は無数のあるがままの自分(それは表象のすべてであり、昨日のブログで詳述)を産出し、しかも、自他関係からその自分を客体として「自己呈示」する作用のこと。すなわち、「原自」とは、自分を産出しながら同時に変換させる働きである。

僕は「原自」を「スタイル」の素朴な形と考えている。逆に言えば、「原自」を練り上げたものが「スタイル」となる。

「スタイル」とは、「ライフスタイル」というように「スタイル」という作用が作り出した型でありがなら同時にその変換作用そのもののことである。

画家の喩えで言い換えると、その画家の作品に現れた画風でありながら同時に見方描き方ということになる。

同じ風景を描いても、ゴッホが描くと、燃えるあがるようなタッチの絵になり、ルノアールが描けば、とろけるような絵に、そして、セザンヌが描けば、重厚なタッチの絵が出来上がる。

要するに、画家における「スタイル」とは、その風景を見てそれぞれの画風を作り上げる変換装置という作用のことであり、その作品に現れた特徴ということになる。

したがって、「原自」とは「スタイル」と同様に変換させる働きがある。無数のあるがままの自分「=小さな自分」を産出しながら、同時に変換装置によって「あるがままの自分」を「演技」に換える作用のことである。「演技」が洗練され型を持つようになると「原自」は「スタイル」へ練り上げられる。

「原自」から「スタイル」という道のりは、フーコーの言葉を借りれば、「自らを一個の芸術作品として創造しなけれぱならないということ以外にない」ということになる。
 
「原自」の演技性
 
ここで、「原自」の定義にある「演技」について言及する。「演技」という言葉に唐突な感じを抱かれた方も多いと思われる。

人間のふるまいのうちに「演技」でないものはない。極論を言えば、無人島にひとりでいるときも人間は「演技」をしている。僕はそう考えている。

その根拠を説明しよう。

言葉を交わすための根源的な能力が人間には生まれながらに具わっている。新生児は生まれながらにして、人と交流している能力を持っていることが明らかになってきた。要は、生まれながらにして人間は「演技」をしているのである。

興味深い知見を紹介しよう

フロイトもピアジェも、食欲を満たすための「欲求―充足活動」のみに生きる生物的な乳児を前提としていた。しかし、乳児は他者とコミュニケーションすることそのものを喜びとする存在なのである。またまわりの人々も最初から、新生児を社会的ネットワークのなかへ迎え入れ、家族の大切な一員として接する。新生児は、自身もまわりの人々からも、一人の人間として認められるような形で生まれてくるのである。      (「ことばの前のことば」 やまだようこ)

                                                 
この研究書のなかで、わけても興味を抱かせるのは、新生児が周りからの話掛けに対してシンクロした反応を示すという報告である。このシンクロする動きは、成人が普通に会話しているときに見られる「エントレインメント」と呼ばれる、いわば人と人との関係を調整するための一番基本的な働きです。驚くことに、新生児の段階で、すでに模倣や共鳴動作のベースが築かれているというのだ。

ここでいう「エントレインメント」は「原自」の働きといってよい。
 
興味深い実験
 
チンパンジーと人間の子供に帽子をかぶらせて初めて鏡の前に立たせる実験である。チンパンジーの子供はしばらく興味を持って見ているが、その対象が自分だと分かるとやがて鏡の前を立ち去る。一方、人間の子供は鏡の中の対象が自分だとわかってもなお興味を失うことはない。子供は帽子の位置を変えたりして、なかなか鏡の前から去らない。

チンパンジーの子供はただ対象にのみ興味を示すのに対し、人間の子供はそれだけではない。鏡に映る対象が自分だと分かった後も、鏡像に興味を抱き続ける。ナルシシズムの原初がそこに見られる。

ナルシシズムとは端的に自分のことを愛することの謂いではない。ナルシスの神話ように水面に映った自身の影にうっとりしているのでhない。鏡の前の子供は自分の母親の眼でもって自らの姿を見ている。帽子の位置を変えたり、いろんなポーズを取ったりしながら「演技」しているのだ。鏡に映った自分を見て、母親に喜んでもらっている自分の姿を想像しているのである。

要するに、幼児の段階ですでに人の目を通して自分を見る能力が具わっている。この事実は生まれながらにして「演技」するためのフォーマットが具わっていることを意味している。そうであれば、無人島にひとりでいようが「演技」しているのである。「ありのままの自分」という演技をしているのである。

人間はさまざまに定義されるが、理性的な動物、言葉を話す動物、笑う動物、遊ぶ動物、道具を使う動物等に加えて、演技する動物を加えてもよさそうである。

以上の議論を踏まえて、改めて「原自」を定義しよう。

「原自」とは、無数のあるがままの自分を産出しながら、それらを「演技」として自己呈示する変換装置である。

誤解を恐れずに言えば、「原自」とは他人とつながろうとする無意識の欲望であり、演技する精神である。そして、生成変化してスタイル化を可能にする。

the end
 
参考記事:
「『ありのままの自分』はいない!」
「『ありのままの自分』を磨く」
 
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