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弱いまま強くなるために(20)
2015/6/7 塾長ブログより
 
傷つきやすい青年は出かかった言葉を飲み込んだ。この言葉を言えばやり込められるとわかっていたからだが、あえて全部吐き出してしまいたかった。

氷のなかに薄墨色の醜い水生昆虫が長い肢を折り曲げて閉じ込められている幼い記憶の断片がフラッシュして過ぎて行く。固く閉じ込められた醜い虫そのままの人生だと思うと、青年はだんまりを決め込んだ。

「なんか、言いなさいよ…いいわ、言いたくないのなら、黙ってりゃいいのよ。どうせ自己憐憫の言い訳に決まっているわ、むかつくだけよ」

まー君が椅子を立とうとすると、爆音がする。

バイクのエンジンがしゅるしゅると音をくゆらせ、しばらくして、向こうから、黒い革で身を固めてサングラスをかけた男が歩いてくる。緑の光のなかでさしずめ甲冑が笑っているようだ。まー君の表情が崩れて手を振る。男の白い歯がさらに際立った。

「カズさん、久しぶりね~。どうしてたの」

と奥さんが立ち上がって迎える。

「どうしてたもこうもないよ」

そういうと、ちょこんとテラスに腰かけた。

「子供向けの番組のレギュラーが入ってね。それが悪役の怪物役でさあ、被り物じゃなくて、すっぴん顔に化け物メイクをするんだよ。まあ、撮影が立て込んでね、大変なんだ。これで生活が少しは楽になります」

と、わざとかしこまって屈託なく笑った。

カズさんは、俳優暦もうかれこれ40年の、いまも存続するアングラ劇団で現役を続けている、今年還暦を迎えるというベテラン俳優で、決して生活は豊かそうではないが、バイクにだけは惜しまず金をつぎ込んでいる。見るからに飄々として捉えどころがなく、およそ実年齢よりは10歳は若く見えるが、そこは俳優稼業の長いベテランである、話す言葉の端々からは、幾重にも刻まれた年輪の、えにもいわれぬ人間臭のようなものが匂い立ってくる。

そういえば、まー君のお師匠さんである。まー君の演劇事始めは、今となっては昔語りのアングラ劇団からのスタートだったのだ。

「舞台に上がってもいまと全く変わらない。いまの雰囲気そのまま。いま話したままの喋り方でセリフをいうんだらから、ほんとにカズさんはすごい」

と、マー君は青年に言って聞かせるように奥さんに向かって話す。

「前にカズさんの舞台を見に行ったときに、石橋蓮司に似た人がカズさんの演技を食い入るように見ていましたよ」

と、つづけてほめると、カズさんは別段照れる風でも喜ぶ風でもなく、

「いやいや、石橋さんのほうがずっと上だからねえ…」

と、無表情だった顔がいきなり相好を崩す。

「カズさん、石橋蓮司さんじゃあなくて~、石橋蓮司に似た人ですからね。間違えないで下さいよ」

とマー君が突っ込みを入れると、カズさんも心得たもので「お約束」のテラスから転がり落ちてみせ、場を笑いで包んだ・

「これでも、大きいお孫さんがいるんですよね。もう30過ぎてたかしらね」

と奥さんしては珍しく眼鏡の上の八の字の眉をほころばせて喜んでいる。

「先妻の子供でね、いまの妻の子供はまだ3才じゃあ、どうだ、まいったか!」

と言って立ち上がると、子供番組さながらの大きいポーズをとってまた笑わせた。

「これでなくちゃ~ね」

とまー君はあてつけがましく青年のほうを横目でにらんだ。空気を察した奥さんは青年のほうを一瞥すると、

「彼も主人の教え子で、カズさんとは初めてでしたっけ、中学2,3年の時に担任だったんです」

と、カズさんに青年を紹介すると続けた。

「あいつは道化役者だなと、うちの人が言ってたわ。主人に言わせると、ひとし君も喜劇役者になってしまうわね。どこをどうひねればそうなるのか、私にはさっぱりわからないけど。ピンぼけ写真の達人だけあって、ああ見えて、なかなか人間の奥を見抜くのよ」

青年は奥さんからはじめて名前で呼ばれて妙にうれしかった。はじめて先生一家の家族になれたような気がして喜びが湧き上がった。

「こいつが道化?こりゃあ、おもしろいや、じゃ、ひとし、ひと芝居やるか」

と、悦に入っている。あたりが反応しないとみるや、少々ほほを火照らせて

「…カズさん、しごいてやってくださいよ。テラスを舞台にして、これから稽古に入る」

と、今度は声色を変えて重々しい調子で言うと、舞台監督よろしく、テラスのテーブルや椅子の片づけを指図する。

先生の家では、物事が何の前触れもなく始まる。先生独特のピンボケな写真そのままに、何がなんだ分からないまま、ひとりのアイデアが暴走しても、いい加減極まりなく事が運んでいく。奥さんもなんやかんや言いながら、楽しそうにテーブルや椅子を片付けはじめた。

青年は、これから刑場へ引かれていく身でありながら、その雰囲気にのまれて椅子を庭に降ろしている。引かれ者の小唄とはよく言ったものだ。青年はおろおろしながらも口笛でも吹きたい心境になっている。

「こんなのは初めてだ」

にゅらっとして浮かれた空気に接合されてそのままの格好で流されていくのをどうしようもなく、もがくこともできずに、青年はなりゆきに身を落としていった。
 
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