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弱いまま強くなるために(19)
2015/6/7 塾長ブログより
 
傷つきやすい青年は、目を大きく見開いた。あの3人の中でも一番苦手な人間が、こともあろうに「自分の面倒を見る」といって目の前にいる。

マー君は戸を開いてテラスの椅子に腰かけると、手に持っていたコーヒーカップをテーブルにおいて、青年のほうへ視線を向けた。

「あんたが一番鈍感なのよね」

いきなりの言葉に青年は闇討ちに会った。切っ先のとがった言葉が落ち着いていた気分をばっさり切り捨てた。青年の口元に浮かんだ薄笑いがそのまま消えることなく残っている。青年は相手の視線を外すようにすっと遠くの方を見やった。庭の向こうには大きな弧を描いてどっしり構えているクジラの森が視界を覆っている。

小さいころからの癖だった。傷ついた心の痛手を相手に悟られないように沁みついた表情。青年からすればこれも悲しい仕草の一つであった

クジラの森を見るとはなしに見ながら、その呆けた思考の歯車から思いもよらない言葉が飛び散った…「あなたは自分が一番かわいいのよ」…大学のときにはじめて付き合った彼女に言われた言葉だった。決して認めたくはない。図星の言葉だった。聞かなったこととして葬った言葉、その死の床に安らいでいた言葉が、マー君の言葉に呼応するようにして、はしなくもよみがえったのだ。

青年の心に永く棲みついている小さな住人にはとうの昔から承知の事実であったにはちがいなかった。小さいころから祖母の顔色をうかがい、母の思いを汲んで、そして一番愛したのは自分自身だった。大人になっても人目を気にしてたとえ人の言いなりになっていても、自分以外のことにはまったく関心がなかった。

青年はその事実を巧みな言葉で紛らし正当化してきた…「まわりの人間の心を惹きつけるものが、自分の心には少しも惹きつけられない」…自分を特権化して生きる支えとしてきたのだった。

山あいの窪地を台座に空を渡って秋風がさわやかに注ぎ込まれて緑の静かな広がりが見えるテラス、その椅子に座って奥さんの自然と一体になったような笑顔にやすらった。その安堵もいっとき、招かざる狼藉に心はもつれるまでかき乱されてしまった。

青年にとって、鈍感と言われたのは空前の出来事だった。

神経を震わせる自分を「弱い」と思うことはあっても、鈍感だと思ったことは一度もなかった。少なくとも意識上は…自分ほど繊細な人間はないとして矜持を保っていたのだった。

「なにボーとしてるのよ、まだ酔っぱらってるの!それとも、自分に酔っているの?」

青年は我に返った。

「そんなことないわよ、しっかりしてるわよ、ねぇ~」

にこやかに笑って、奥さんが助け舟を出すが、その手の人たち特有の、からっとして粘着力のあるまなざしは、青年の面に据えられたまま、先ほど奥さんの言ったことを繰り返した。

「あんた、ゆうべ目ん玉丸くしてたけど、あれ、全部嘘なのよ。どうよ、驚いた?」

「奥さんから聞きました」

青年はうつむいたまま答えた。

「でもね、あんたの嘘で固めた人生よりあたしたちのほうがよっぽど正直でいいわ、ねぇ、奥さん」

「あまりいじめないで。この人も主人のかわいい教え子なのよ」

「だから、かわいがってあげてるじゃない。先生もそうしろってあたしを残したんだから」

「どういうことですか、僕のどこが、嘘で固めているんですか」

ここで初めて青年はその男に向かって口を開いた。下手な口をきくと徹底的にやり込められることは分かっていた。しかし、そうなりたい気持ちも相半ばして、今日ばかりは自分を脅かすものに対してどうしても逃げ出けてはいけないように思った…いや、そうではない、青年は、もう逃げられないと感じたのだった。

「やあね、まだわからないの、じれったいわね。教えてあげるから、よく聞くのよ」

青年は無意識に姿勢を伸ばした。

「あんた、なぜここに来たの、あたしたちのこと、ほんとは嫌いでしょう。嫌なのになぜ無理してまでここに来たのよ。すぐにわかったわ、あんたの態度を見ただけで…とくに~あたしのこと、大っ嫌いでしょう!でも、あんた、そんなこと、おくびにも出さないで、あたしの話にも相槌を打って笑ったりさ、気持ちわるいったらありゃしない…この嘘つき野郎、いらいらしてきたわ、もう!」

青年は覚悟を決めたように、相手の眼を見つめた。

「たしかに僕は嘘をついていました。あなたたちのことが好きではありません。でも、ここに来たかったんです。それは本当です。なぜだかわかりません」

「そう、そんなら何もいうことないわ」

「ひとつ質問していいですか」

最後まで聞かないうちに、マー君は立ち上がるとくるっと背を向けて引き戸を開けると中へ入っていった。

「気にしないでね、何度も言うようだけど、まともに付き合ったらだめよ。家に来たら真面目は通用しないの、いい加減がうちのルールだから、ほら、また来たわ、いい、わかったわね」

ガラガラと引き戸の音が体にこだまする。手には灰皿を持っていた。マー君はまた同じ椅子に座って灰皿を置くとゆっくりとポケットをまさぐっている。たばこをくわえると、こちらを見ながらライターを出した。

「言ってごらんなさいよ」

「僕には奥さんやあなたの言っていることがさっぱりわかりません。あれが嘘というなら、何を信じればいいんですか。あれが演技なら、あの人たちは超一流の俳優です。僕には嘘には見えませんでした」

「おもしろいこというわね。だから、嫌いだわ、鈍感な男は。あんた、神経質そうに見えるけど、少しも繊細じゃないの、自分で分かっているの?傷つきやすそうに見えるけど、あんたは傷ついてないのよ、言っていること分からないでしょ、鈍感だから!」

「わかりません。でも…」

まるで大きな氷山の下にいるような気分になった。いましがたの気分はいつの間にかすっかり蒸発してしまった。ほの暗い靄が青年の人生の全体に立ち込めている。
 
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