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弱いまま強くなるために(7)
2015/4/30 塾長ブログより
 

傷つきやすい青年は、ふと兆した母との思い出の、その記憶をたどっていった。どうして母と一緒にいた思い出として記憶装置にインプットされていたのか、不思議であった。よく分からないものの、その雲霧のなかに母の愛情とそれに付け加えて、なにか切ないものがわだかまっていることだけは感じられた。その闇底にたぐまって埃まみれになっていた糸の塊を丹念にほぐしていくと、鮮明な記憶として甦ってきた。

たしか小学校の3、4年の頃だった。青年の生まれた田舎では、毎年2月になると「十日市」という祭りがあった。おそらく毎月10日に神社の境内や参道で開かれていた市が、神社の冬の例祭と一緒になって2月の10日の行事として残ったものと思われる。「十日市で売ってないものは、猫の卵と馬の角ぐらいだ」と言われるくらいたくさんの店が出た。学校が休みで村の子供たちは連れ立ってバスや自転車で隣町のもうひとつ向こうの町まで出向いた。

お祭りとか縁日の人混みが嫌いだったのでこの日も行くつもりはなかった。しかも、この日は祖母が実娘のところへ泊りがけで行っていない。心の底では今日一日は母と一緒に居られることを喜んでいた。その朝、幼馴染に誘われて渋っていると、母はお金のことを気にして行き渋っているものとばかり気遣って千円を持たせてくれた。母と一緒に居たいという気持ちは肩透かしにあったようにすれ違って、母からすればお祭りの日ぐらいは元気に思いっきり遊んでおいでという意味を込めて渡してくれたのである。母は何も言わなかった。が、ちゃんとわかっていた。

暦の上での春とは名ばかりの寒空のなかを、この日ばかりはと自分を元気づけて、幼馴染と出掛けて行った。

青年の生まれたあたり一帯は、小正月を過ぎた頃から北風が冬枯れした木々をひっさらうように吹きすさんだ。そもそも青年は冬という季節が嫌でたまらなかった。縁側に差し込む冬の日差しの哀願するような弱々しさも嫌だったが、からっ風が低くうなって雨戸を叩く夜は布団の中で身が消え入るような不安に襲われた。

「十日市」には地元の特産物や工芸品が売られ、当時で何万もする木臼の居並ぶ姿はオブジェのような存在感で人目をひいた。各家々では年の暮れの恒例行事として木の臼で餅をつくのが当たり前の時代だった。屋台や露店がごった返す人並みの両脇に連なって、その行き当たりの神社の境内には見世物小屋も出ていた。

ニシキヘビを体に巻いた半裸の女や頭が牛で体が人間の姿が描かれているおどろおどろしい絵看板、そして親の因果が子に報い・・・因果は巡る風車・・・と物悲しい節で呼び込む声に、子供たちはなにやら胸騒ぎを感じながらも、怖いもの見たさの好奇心で半ば胸躍らせるようにして天幕の中へ吸い込まれていった。押し合いへし合いする大人たちに挟まれながら竹ざおの手摺りを伝わって進んでいくと、蝋燭の薄暗い明かりの中、マイクの声で蛇女と紹介される白髪の老婆が小さな蛇を鼻から入れて口から出したり、皮をむいて食べたりするのを、固唾を飲んで見守っていた。そのほかにも小人のような男が檻の中に入れられているのや粗末なカラクリ仕掛けで首が伸びたり縮んだりするろくろ首の女を見た覚えがある。

薄暗い小屋からふたたび日常性の水面に顔を出すと、子供たちは冬の乾いた日差しを満面に浴びて、いままで息を詰めて抑えていた興奮を一気に噴き出した。青年は、見聞きしたことの一つ一つを面白がってまくし立てる友達の話ぶりに相槌を打ちつつも、気の遠くなるような思いで彼らの会話を聞いていた。

・・・昭和の2年、東北地方の山の奥地で発見されていまなお世界の謎として、現代医学でも解明不可能の、世にも珍しい蛇女、蛇を見せればニコニコと笑みを浮かべて・・・と場内で説明されていたあの白髪の老婆にたしかに驚きはしたが、小学校の中学年ともなれば、「なり」は子供であっても、嘘八百の見世物ぐらいのことは飲み込めた。

小屋のなかでは身を硬くして息を飲んで見ていた幼馴染も、小屋から出ればそこは子供、すぐさま見たこと聞いたことを面白がって言い立て合う。われ先に手柄を奪い合うように次々に繰り出される見世物小屋の見聞録をある切ない思いに捉われて虚ろに聞いていた。

 
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