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弱いまま強くなるために(5)
2015/4/28 塾長ブログより
 
傷つきやすい青年は、幼い頃をふりかえってみて、はっとした。すべて同じではないか!

人目を過剰に気にすること、人前に出ることに異常なほど恐怖を覚えること、集団行動が苦手なこと、そして、みんなと一緒にいて楽しむができないこと。

それらはみんな共通している。一見違うように見えて実はすべて同じ根から生えている。確認してもそれでもなお確認しないと気が済まないという性根…

ガスの元栓や鍵はもとより、「自分がどう思われているか」、「人の目にはどう映るか」、人の心を確認しないと気が済まない。行進が苦手なのも、その歩調をいちいち確かめようとしているうちにリズムがずれてきてパニックになる。

逆に場の空気のようなものは確認しようがないので、どうしたらよいか身動きできなくなる。励まされたり、団結などと叫ばれると、どう反応していいのかわかないので身を固くして心を閉ざすしかないのだ。また、祖母の言葉を迷信だとわかっていながら盲信するのも超自然の力に対する確認することのできない不安があったからにほかならない。

精神病理に詳しい知人は次のように教えてくれた。

「いわゆる確認恐怖症ですね。ガスの元栓や鍵などを執拗に確認し続けなければならない強迫症状と、他人が自分を見つめ続けているという妄想は、おそらく表裏一体ではないでしょうか?」

たしかにそうだ。確認、確認、確認、どこまでも確認しないと気が済まない性格。どうしてこんな厄介なことになってしまったのだろう。確認しても確認してもどこまでいってもこの自明な自分の存在さえ確認されないように思えて青年はどうしようもなく悲しくなった。

高校のときだった。心臓はいつ止まってもおかしくない、ふとそんな思いがよぎった。その瞬間から心臓が早打ちしだした、しばらくすると立っていられなくなった。勝手に動いている心臓、その思い通りにならない心臓はいつ止まっても不思議でない。確認できない不安はどこまでも不安として続く。妄想として極まるところまで行き着く。医者に見てもらっても納得できない。何軒かの病院を回った挙句に不安神経症と言われた。

人に「見られる」恥ずかしさもそうだ。人前にたって実際見られているときは「見られている」という感覚がリアルに押し寄せてくる。その恐怖の体験はすでに述べたが、思えばたしかにたえず「見られている」感覚につきまとわれていた。目ではない。「見られている」としか言いようのない実体。そう、「まなざし」のようなものが頭のななめ上方から見下ろしているような感覚がいつもあった。夜静まり返った部屋にひとりでいるときなどに、その「まなざし」がよくあらわれた。この世とあの世を隔てたその透明な壁の裏側からすべて見られているような不安を駆り立てる。妄想としか言いようがない。やはり異界から「まなざし」という形をとって自分を核にしようとしているのだろうか。

そういえば、不眠症も同じだと青年は思った。

青年は幼稚園のころから寝つきが悪かった。というより眠ってしまうのを無性に恐れる子供だった。もし眠ったら最後明日目が覚めなかったどうしよう。このまま死んでしまったら困る、小さな頭では眠って意識がなくなることと死ぬことがほぼ同一線上の出来事のように感じられて、眠ることに不安を、あるときは恐怖すら覚えた。そうして不眠症になった。小学校に入ると、眠っているときでもなにかが目覚めているような感覚が出はじめた。自分のどこかに眠らないで確認=監視し続けている何者かがいるような感じがついてまわって、いっそう不眠症に拍車をかけたのだった。
 
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