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キレイごとに聞こえるかもしれないが、極限もそう悪くない!
2015/3/29 塾長ブログより
 
キレイごとでは救えない!
 
悩んでいる若者の声は、新聞紙上からもネット上からもたやすく聞こえてくる。しかし、その解決法となると、けっしてたやすくない。

僕は彼ら彼女らをサポートすると決めた日から、たとえ「つっかえ棒」でもいいから、彼ら彼女らの支えになりたいと、ずっと思い続けてきた。と同時に、言葉を尽くしたところで、キレイごとにしか聞こえないことも分かっている。

教育に携わってきた長年の経験も、彼ら彼女らの深い悩みの前では無力でしかない。いくら経験を積んだところで、自己の経験の外に出ることはできない。その経験の内部でしか、彼ら彼女らの悩みを理解できないことを痛感している。

育った環境も違えば、悩みの内容も質も違う。身についた性格も見方もそれぞれだ。千差万別の心の現実に対して、すべてに適う解決法などないに等しい。

結局は、ひとりひとりと直接会って、彼ら彼女らの言葉に耳を傾けその心に寄り添い一緒に歩みながら、それぞれの出口のほうへ赴いていくしかない。それしか手はないだろう。

そう考えると、暗い気分に覆われる。僕が一生のうちにそうすることができる若者は一体何人いるだろうか、と思わず指を折りたくなるからである。
 
実体験が一番のメッセージ
 
遠くの空から手をこまねいて彼らの声を聞いているだけよりも、たとえキレイごとにしか彼らの耳には届かないとしても、あえて自分の思いを率直に語りかけるほうがよい。その思いは強い。

それに、苦しんでいる人への通路が、たとえ自己の経験の裡でしか開かれないとしても、その通路はどんなことにしろ、自分が苦しんだときの経験によってしか見出せないのも確かである。

僕はつねに僕が一番つらかった時に返って、彼ら彼女らの根深い苦しみを理解しようと努める。そして、僕がその時立ち直るきっかけになった経緯を、何度でも、悩んでいる彼ら彼女らへのもとへ届けること、そのことが彼ら彼女らにとって、悩みの「見えない尻尾」を捕まえるヒントになるかもしれない。

僕は自分の心が第一に語りかけてくる思いを差し置いて、平然としているわけにいかない。
 
死の淵を覗いた体験
 
僕は数年前に癌の宣告を受けた。手術を拒否して自力で直す道を選んだ。しかし、僕の努力は報われず癌はこぶし大にまでに増殖した。その大きさは末期癌のそれと同じくらいだった。その絶望と後悔で自縄自縛になって、生きる気力さえ失っていたとき妻に力強く支えられた。

まず今日一日をできることを一生懸命しようと決心した。

未来のことを考えれば、死の恐怖でいっぱいになる。過去のことを考えれば、後悔の念でいっぱいになる。後先のことは見ないで「いま」を生きるだけ、そのとき僕にできることはそれだけだった。

もしかしたら、今の僕はなかったかもしれない。いまこうして生きているのも、運が良かっただけかもしれない。偶然が味方してくれたからもしれない。しかし、その時は神仏に祈ることすら虚しかった。

運や偶然に期待するより、確かな「いま」を自力で確かに生きるほうが納得がいった。いや、そうではない、そうするしかなかったのだ。

そう決心して生きはじめると、いままでどうでもよかったものが、まさに機会をうかがって目の前に躍り出たように、かけがえのない大切なもののように思われた。

見過ごしていた公園の木々の、日々に色濃くしている緑が、風光にきらきらとそよいでいる、その美しさに切ないほど心が打たれた。当たり前のこととして食している、お米に涙が出るほど感謝の念が湧き上がってきた。
 
死を前にして生きている実感を味わう
 
生きている実感とは、こうもまざまざと迫ってくるものかと…生きていることの意味は極限にあって、突然読み解けてくるものだ。極限を目指せとは言わないが、少なくとも極限もそう悪くないなとそう思う。いまだからこそ笑って言える。

昨日のブログで底の抜けた生き方しかしてこなかった、そう自分を評した。それも事実である。あえて言うなら、癌という人生からの手厳しい贈り物によって、僕は生きなおした。それまでの自分を絶ち、新たな自分とつなぎなおしたのだ。

たしかに、それまでの僕は夢を追ってるだけの風来坊であった。夢を実現させるだけの才能に恵まれていなかったとしても、現実から目をそらし、努力から逃れるためにおとぎ話を作り出す才能だけには恵まれていた。

その長年のつけが、十分に間合いを取って、癌という名の病魔として僕に襲いかかってきた。同時に、極限まで至ったそのときの決意が僕を救ったのだ。待ったなしの状況で人生から丸裸にされた僕がともかく恐怖と不安、そして後悔の中で「今日」を生きるためだけに、命を燃やし続けた。

「今日」が次から次へと「明日」へ変わり、その積み重ねが「未来」を創っていった。「いま」を充実さえることに専念したとき、いつの間にか絶望や後悔は闇に沈み、悲嘆は退散していった。

このまま死ぬわけにはいかないという強さを生み、ひいては、僕にしかできない使命に気づかされることになったのだ。その使命こそ冒頭に挙げた悩める若者たちのせめてもの「つっかえ棒」になりたいという思いである。
 
参考記事:癌体験から得られた教訓
「塾長インタビュー(Q17)なぜ愚放塾を創ろうと思ったのですか?」
「『死の経験』を潜ること、それは真の生き方を学ぶこと!」
「生き方に迷っているあなたへ」
「手渡しでなければ受け取ってもらえないもの」
 
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