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教育は綱渡り、教師は魔術師である
2015/4/23 塾長ブログより
 
教師は気楽な稼業ではない!
 
教育とは綱渡りの綱のようであり、教師とは生徒を綱渡りに導く魔術師のようなもの。

ほんの一言が生徒を対岸まで導くこともあれば、谷底に真っ逆さまに落としてしまうこともある。大げさな喩えかもしれないが、教師という存在が、多かれ少なかれ生徒の人生に影響を与えることにはちがいない。まかり間違えば、一生消えない傷を負わせてしまうことにもなりかねない。昨日のブログを書きながら教員生活の24年間を顧みて、僕の意識の向こう側で、心に大きな痛手を負った生徒がいたのではないかと、背筋に冷たい電流が走った。

冒険小説の名手と謳われた作家の船戸与一が、昨日亡くなった。朝刊で知った。奇しくも、その新聞のコラムに船戸与一の中学生時代の教師とのエピソードが載っていた。

その中学生は古代ギリシャ・ローマ英雄伝『プルターク英雄伝』を愛読している。読んではならぬと歴史の教師が命じた。「何してかね、先生」「その本にゃ暴力が賛美されちょる」「そいじゃけど、おもしろいわい。先生の話より何ぼうおもしろいわい」少年は平手打ちを食らい、廊下に立たされた。後の作家、船戸与一さんである(「編集手帳」読売新聞)

教師の無理解、それに敢然と立ち向かう反骨精神が冒険作家船戸与一の、破天荒でエネルギッシュなハードボイルドの下地になっているのは明らかである。当時は、どこにでもいたごく普通の教師と思われる。

時代は変わり、いまなら報道を賑わし粗悪なレッテルを貼られるにちがない、その暴力教師が、しかしながら、利かん坊な中学生の前に立ちはだかり、その反骨精神を培う壁の役割となったといえなくもない。この乱暴な指導が、後の彼の作家人生のプラス面に大きな影響をもたらしたことを、一概に否定はできないだろう。

コラムの最後のほうでにはこんな件りが載っている。

みずから進んで危地に飛び込んだ男が言う。<何かをすべき時にしなかった後悔。そればかりだった。何かをしたために生じる後悔。一度ぐらいそんな後悔がしてみたい>と(文春文庫『夢は荒れ地を』)

小説の中とはいえ、海外を飛び回る取材と酒豪で知られた作家自身のバイタリティーを語る言葉として、そのままに受け取っていいように思われる。むろんのこと、その教師と出会わなくても、作家船戸与一は生まれただろう。しかし、その教師とのエピソードが、いまなお語りつががれているということは、彼の中で良きにせよ悪しきにせよ、その教師との共振が人生に色濃く影を刻み、もっと言えば、人格の中に居所を構えていたからではないだろうか。

けれども、その教師にしてみれば、時代の風潮で当たり前の指導をしたにすぎない。忘却の彼方の出来事かもしれない。だから、教師は魔術師だと冒頭で述べたのだ。教師は自分のあずかり知らぬところで、その態度や言葉によって、生徒の人生に、変幻自在な、まったく予想だにしない影響を及ぼしてしまうことがあったとしても、何の不思議もないからである。
 
ひとりの女教師のおかげで、今の僕がある。
 
僕の人生のプラス面に大きく作用したある教師との出会いの物語を書こう。もちろん、僕の人生に長く黒い影を引いた教師もいなくもないが、僕を育ててくれた、ある意味、破天荒な教師の話を感謝の念をもって書こうと思う。いまさらながらに、あの先生と出会っていなかったら、どうなっていただろう、そう考えただけでも、ゾッとする。若干の照れ隠しもあって、自分はもとより先生に対しても、いささか失礼とは思いつつも、親愛の情をこめてカリカチュアライズして書いた。お許し願いたい。

いま、なお僕は隙だらけの男である。妻の言葉を借りれば「抜け作」である。

今日も、愚放塾から僕の財布が消えた。さんざん探した。挙句の果ては、僕の座っている座布団の中に埋もれていた。どうしてそんなところにあるのか、誰がそこに隠したのか、犯人は僕でしかないのだが、僕は前後不覚、全く覚えてない。昔からこうである。いまに始まったことではないので、認知症ではないとは思う。が、安心している場合ではない。ある科学的知見によると認知症よりひどいらしい。

たしかに、小さい時からよくまちがいを仕出かした。俗にいう「おっちょこちょい」ではない。「おっちょこちょい」というのはあわてん坊で早とちりする人のことだ。僕は決してあわて者ではない。動作がのろい。「おっちょこちょい」のように活動的ではないのだ。

そのうえ引っ込み思案で無口だった。保育園の時など庭を元気に駆け回る近所の子供についていけずに集団からはぐれる。取り残された僕は隅の木陰にしゃがんでアリを捕まえては遊んでいた。

先生は、おそらく僕のことを「知恵おくれ」と思ったようだ。手取り足取りよく面倒を見てもらった。特別扱いされて幼心にも変だとは感じていたが、子供の僕はそれ以上は考えてもみなかった。

小学校に上がっても、よく忘れものをした。母親が心配するのも無理はない。母親の願いはただひとつしかなかった。とにかく人並みに育ってくれればいい、お願いだから!とよく泣きつかれた。事あることに母親は人並み以下の僕を見て、その失望の気持ちを露骨に顔に出した。僕は、母親の顔に困惑して何かしなければと思ったが、何も思いつかなった。

もちろん、先生の言いつけどおりできない。集中してひとつのことをするができない。注意散漫で、みんなが普通にできることができない。ちゃんとしたつもりで得意満面に自慢したところで、どこかが抜け落け落ちている。そのたび、母親は、僕の将来に危惧を抱いたらしかった。みるみる顔の険しくなっていくのが、手に取るようにわかった。母が亡くなって30年ほどたって、ようやくその母の顔を受け入れることができた。とっくにこの世を去っている母の顔を遅ればせながら、ちゃんと見ることができるようになったのだ。

引っ込み思案で無口、のろま、もたもたしているうえに、注意散漫、人の言いなりのお人よし、アリが唯一のお友達、いじめられはしなかったものの、周囲からはバカだと思われていた。しあわせなことに僕はそのことに少しも気づいていなかった。それがバカのバカたる最たる所以であるにもかかわずに、なんともおめでたい少年はやはりバカだったのだ。

ある日、僕は席が隣同士になった女の子を好きなった。2年生のある日だった。理由などない。とにかく好きになった。唐突のように感じるが、初恋にはちがなかった。僕が自分の存在を初めて意識した出来事だった。心臓が早打ちして、よくどぎまぎした記憶がある。自我が芽生えたというより、遅ればせながら、ものごころがついたといったほうがいいかもしれない。まがりなりにも自意識らしきものが芽生え、まがりなりにも自分らしさを主張しはじめたころだったように覚えている。

当時机は長机で二人共用のものだった。机には傷や穴があって薄黒く汚れていた。でも好きな女の子と、一つ机に二つのいすを並べて勉強できる喜びで、幼な心はてんこ盛りになった。僕は浮かれた。勉強できる喜びといっても、僕はますます落ち着きがなくなって、勉強なんぞまったくのそっちのけだった。隣の女の子が気になって仕方がなかったのだ。

授業中はそわそわして、先生に注意ばかりされている。ノートに下手な似顔絵を描いて隣の女の子に見せようとするが、そのまえに先生に見つかって怒られる。消しゴムのカスを大量に生産して、それをこねて人形を作って渡そうとすると、それも渡さないうちに先生に取り上げられた。僕にしてみれば、精いっぱいのアピールだった。僕の小さな目には、彼女しか映らなかった。小さい世界に彼女があふれかえっていた。しかし、小さな恋の物語も、彼女の心ない一言であっけなく終わった。

「あんたは、バカだから嫌い!」

僕は完全に虚を突かれた。突然そういわれても…最初は何のことかわからなかった。その辛辣極まる言葉を聞いても、お人よしの僕は口元を緩ませて、笑みを浮かべる始末。さぞかしバカ面に映ったにちがいない。しばらくたって、やっと状況が飲み込めた。たしかに、この反応の鈍さはバカそのものなのだ。

遅ればせながら僕は未曽有の悲しみに襲われた。失恋と軽蔑の言葉が幼い心に押し寄せた。その津波に小さな恋心とわずかばかりのプライドは跡形もなく砕かれた。小さな胸には猫に引っかかれたような爪痕だけが残った。そのひっかき傷は遅ればせながらの僕にも暗い影を引いた。

「バカだから嫌い」という言葉は、なにかにつけて頭をよぎった。僕は全く自信を失った。もっとも、もともと自信などなかったのだが、もともと引っ込み思案の僕は、またもとの引っ込み思案で無口な、アリの好きな少年に戻った。

3年生になるとそれまで◎○△だった通知表が5段階評価に変わった。相対評価というやつになったのだ。僕のまったく振るわない成績に父母祖母祖父、家中揃ってみんなが落胆した。家の中が江戸時代になったように電灯の明かりが消えた。家中いたるところに不安の陰影が落ちていた。谷崎潤一郎なら「陰影礼賛」と言うだろうが、我が家が「陰影悲惨」なのはいうまでもない。

通知表を回して見ながら、家族の者は一様に顔をしかめたまま固まっている。お人よしの僕の家族もお人よしだった。小さい僕の気持ちを気遣って叱ることはもちろん、愚痴も励ましの言葉もなく、みんな黙りこくっていた。ひょっとして僕がバカなのは遺伝のせいかもしれないのだが、知恵のない僕にそんな知恵がまわるはずもなかった。

知恵のまわらない僕であっても、いくらなんでもわかった。家族の悲しみと愛情が伝わってきたのだ。

よし、見返してやる!

突拍子もない言葉が出てきた。もちろん、口にしたわけではない。心の中で小さくこぶしを上げたにすぎないが、頑張り屋からは日本とアメリカほど離れている僕からしてみても、家族をこれ以上悲しませていけないことだけは、心底感じていたのだ。

そう決意したものの、決定的なものが抜けていた。誰を見返してやるのか、僕はわかっていなかったのだ。あの女の子を見返すには、もう時間がたち過ぎていた。初恋の痛すぎる痛手も時を経て、少しも痛くなくなっていた。子供の1年は大人の7年分ぐらい。そうそう、ドックイヤーである。

お人よしは競争が嫌いだし、遺伝的にお人好しの家系に生まれた僕には、そもそも見返すみたいな執念深さはインストールさていなかったのだ。ソフトが装備されていないのだから、どのキーを押しても動かない。意気込みだけが空回りして、そのうちに決意すら忘れてしまった。

僕は頑張っているつもりでも、周りから見れば少しも頑張ったようには見られなかった。引っ込み思案の性格は変わらず、黙ってアリと遊んでいるのが唯一幸せの時間である少年は少しも成長しなかった。

「それでも人生はイエスと言う」ひたすらアリと遊んでいても「生きる意味さえ失わなければ必ず報われる」のである。

僕の人生が変わった。ある女の先生の出会いからだった。僕が4年生になったときのことである。

「ゴリババ」とあだ名のついた女の先生が担任になった。年のころは40過ぎか、おそらく母親と同じ年代だったろう。色が黒くて歯が出ている。笑うと歯茎が見えて、なるほどゴリラのようであった。

その先生、なぜか知らないが僕をヒイキした。僕のことをいつも褒めてくれて、かわいがってくれた。教師という職業を忘れてわが子のように溺愛した。公私混同などどこ吹く風だ。ゴリラがわが子を抱きしめて毛づくろいする姿を連想してもらえば、そのイメージがご理解いただけると思う。有無を言わせない力強さがあった。授業中は僕をよく指名してくれた。僕がしどろもどろで答えると答えのいかんにかかわらず必ず褒めてくれた。

まだ子供である。ヒイキであろうとなんだろうと、褒められるとうれしい。調子に乗る。僕は、先生からたくさんの盲目の愛を受け取った。周りの生徒からヒイキとはやし立てられたりもしたが、先生がゴリラだったので、いや、気丈な人だったので、その庇護のもと、僕は平気でヒイキを受け入れ、いつのまにか、勉強ができるようになっていた。性格もゴリラに育てられてたくましくなった。

たしかに教育は綱渡りの綱であり、教師はたしかに魔術師である。
 
参考記事:
自分以上に信じて肯定してくれた人との出会い、その偶然が僕の人生を救ってくれました。
「塾長インタビュー:演劇で思い出に残っていることは何ですか?(Q15)」
「塾長インタビュー:演劇とは何だと思いますか?(Q16)」

→些細なことを軽視して学級崩壊を経験:「教師の皆さん、些細なことを大切に!」
→教師とは恐ろしい職業だと痛感した出来事「生きることは楽しいと言い切るゆとりのある人間が我々の中に何人いるだろう」
→厳しい昨今の教育現場、教師の生き方を提案します:「教師の課題を解決する、演劇教育コミュニケーション・メソッド」
 
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