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人生の「ツケ」を生きる力に変える
2014/8/12 塾長ブログより
 
些細なこととやり過ごす大きな問題
 
人生の真の問題は外から来るのではない。自分の内側に潜んでいて自分を突き動かしているもの、それが問題なのだ。その問題をないがしろにして、外から突きつけられた問題をあくせくこなしているのが、いまの私たちではないだろうか。

根源的な悩み、それは自分では考えてもしょうもないものとして、心の隅っこに追いやってしまっている。表向きは些細なこととして片づけている。しかしがなら、根源的であるがゆえに、その無意識が私たちの行動に影響を与えている。

無意識化した根源的な問題。なかったも同然として片づけられている根源的な問題。無意識は、その起源をさかのぼることなどできない。たとえ遡ったところで意味はない。無意識に時間はないからである。

無意識を云々、どうでもよい。

人生の根源的な問題から目を背けている。ごまかしていることが問題なのだ。人生の真の人生の問題に自身が気が付かないようにしている。そう、否認しているのだ。

否認、これも言葉遊びだな、どうでもいいことだ。

真の人生の問題は、逃げても逃げても形を変えて追っかけてくる。そして、それと正面切って向かい合わなければ、いつも出会い損なう。そして、知らずのあいだに人生の歯車を狂わせる。つまりは、このことに気づくことが大切なのだ。
 
見えなくしていることに、みんなで立ち向かう
 
「自分の根本問題は何だ?」と粘り強く自身に問い掛けよう。

徐々にその全貌が明らかになるまで粘り強く頑張ろう。全貌が明るみになってくるにつれて、目を背けたくなるかもしれない。見たくないものは見たくない。しかし、目をかっと開いて、そのおぞましいものを凝視する。

むずかしい!

動物は火を恐れる。しかし、人類の祖先は、その恐ろしい火から目をそむけずに、火を使いこなす知恵を生んだ。みんなで怖い火に立ち向かった。

ならば、みんなで見よう!

自身の決して解決しえないように思える問題を、共有し合う場が愚放塾である。

みんなが勇気を奮って、自身のおぞましい問題を提示し合う。愚放塾という支え認め合う居場所でそのおぞましいものを共有しよう。
 
おぞましいものによって、人生のリスタートをする
 
他人にとっておぞましいものは、自分にとっては理性的な問題である。自分にとって暗闇に潜んでいるおぞましいものが、他人からよく見える。

他人事としてみれば、それほど大したことではない。

他人の冷静な目で判断された助言は金言に値する。自分にとってどうしようもない問題でも、他人なら数学の問題を眺めるように見ることができる。

そうして、お互いが鍵と鍵穴のようにして結びつき、自分一人では決して解決できなかったおぞましい問題が変容する。必ずしも解決できるわけではないが、おぞましい問題が、今までとは違った姿で現れる。

みんなで支え合い解釈し合うことで、各自のおぞましい問題が咀嚼されて、腑に落ちる。

いままで見ないようにしていた過去のつまずきが明らかになる。躓きの石がはっきりしたら、この石を踏み切石にして、新たなスタートを切る。
 
人生の「ツケ」をプラスに変換する
 
自分にとっておぞましい問題とは、おそらくいままでの人生の「ツケ」。

人目を気にし、社会のモノサシにとらわれ、自分を大切にしてこなかった「ツケ」。

先に挙げたように、目を背けてその問題と正面切って向かい合ってこなかった「ツケ」。

それだけでなない。

いままで抱いてきた自身のちっぽけなプライドが積み重なった「ツケ」。そこのはすくなからず傲りがある。その傲りを愚の力によって一掃して 大愚にまで高めようとするのが愚放塾の教育である。

決してなまやさしいことではない。しかし、演劇と農業と支援、その3つの力を絡み合わせながら、愚の力を用いて、人生を切り開き、大愚の境地まで到達してもらいたい。

小豆島は、お遍路の島。大師様が塾生の愚かさをやさしい目でみそなわしているに違いない。
 
参考記事:愚放塾の教育論
「塾長インタビュー:『愚放塾』の名前の由来を教えてください。(Q2)」
「『豚もおだてりゃ木に登る』の本当の意味は?」
「いまを生きるか、いまに生きるか、どっちを選ぶ?」
「大学休学、不登校生の復学・復帰へ【鈍】(愚鈍になれ!)」
「使命は、向こうからやってくる」
 
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