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「誰とでも仲良くしましょう」という当たり前の欺瞞
2015/3/13 塾長ブログより
 
「鉄は熱いうちに打て」といっても、無理なこともある
 
昨日とは打って変わって、とりわけ小学校の時に先生から言われた言葉をよくよく吟味してみる。たしかに躾は早いうちに見つけさせた方がいい。しかし、子供たちに対してまるで神様にでもなりなさいとでも言っているような言葉=命令が少なからずある。

たとえば、背筋をぴんと伸ばして座りなさい。授業中にあくびをしてはいけません。先生に口答えをしてはいけません。誰とでも仲良くしましょう。(これらの言葉は何十年も前の僕が小学生だった時に教師から言われたものです)

なかでも、「誰とでも仲良くなりましょう」は、経験を積んだところでなかなか達成できない内容。凄惨な事件や紛争記事を読むにつけて、誰とでも仲良くするというのは解決不可能な無理難題のようにさえ思われる。

だから、人生の早い段階でまずは「誰とでも仲良くはなれないこと」を教えるべきではないかと、天邪鬼の僕は思ったりもする。
 
ここで思考実験をしてみよう
 
舞台は入学式を終えたばかりの教室。教室の中には机も椅子もない。配役は、新採用の先生と小学校入学したての一年生20人。

入学式を終えて父母は帰り、教室には子供たちがだけが残されている。先生が戻ってくるまでおとなしくして待ってなさいと指示をされて、すでに30分ほど経過している。教室は大騒ぎになっている。

笑って騒いでいる子供がいれば、殴られて泣いている子供、隅っこでひとりぼっちの子供、ひとり走り回っている子供、仲の良い友達同士で身を寄せ合って話している子供・・・・

新米教師がドアを開けて教室に入ってくる。大騒ぎしている生徒たちを見ている。

「みなさんんがいましていることは素晴らしいことですよ。自分のしたいことをし続けてごらんなさい」

そう言うと、新米の先生は、ずっと黙ったまま生徒たちの様子を見ている。もちろん、いつまでたっても教室は静かにならない。
 
新米教師の挑戦
 
それでも、この新米教師は子供の危険にだけに神経をとがらせて、子供たちのふるまいを何もしないで見ている。

もしかしたら、明日から学校へ行くのが嫌だという子供が出てくるかもしれないことを承知で、子供たちの自由に任せている。

そうしているうちに、教師に訴えてくる子供が現れる。あの子があの子をいじめているとか、あの子にぶたれたとか、あの子があたしのしていることを邪魔するとか・・・・この自然状態の混乱が最高潮になったところで。教師が大きく手を打ち鳴らして、大声で叫ぶ。

「動かないで!動いちゃダメ!」

生徒の動きが止まらなかったら、さらに大声で叫ぶ。原則的には一度で子供たちの動きをぴたっと止めるだけの声の強度が求められる。

ここで重要なのは、静かにしないさいと先生らしくいうのではなく、「動かないで!」となりふりかわまわず、怒鳴るくらいの大声で叫ぶこと。教師生命をかけるくらいの真剣さで叫ばなければならない。

混乱状態を収めるために教師が声の力でもって押さえつける。それができる教師でなければ、教師としての資格はない。災害等の非常時に子供たちを守ることはできない。教師としての根本資質が問われる局面である。新米先生はみずからに試練を課したのである。
 
人間教育へのスタートを切った!
 、
入学したての子供たちは、この経験を通じて、理屈抜きに他人の横暴や身勝手さを体で知る。幼心にも自分の行く手を邪魔したり思い通りにならない存在が他人であることを知る。それと同時に、大人が真剣になったときの怖さを身をもって知るのである。

自分たちでは混乱を鎮めることができない生徒と強権発動して暴力的に事態を収拾する教師…けっしてきれいごとでない。

力で押さえつけ、押さえつけられることによってしか秩序が得られないことを、教師も生徒も体で知る。

小学校に入学した最初の日の体験が、学ぶものと教えるものを共通の課題で結びつける。この動物的な体験をしたことではじめて、人間へ向っての教育がスタートするのである。

うわべだけのきれいごとで、人間同士は仲良くなれない。しかし、動物的なままでいることにも耐えられない。だからこそ、動物的な状態から抜け出そうと人間的な仕方で解決法を学ぶのである。

ここで注意してほしいことは、僕はあくまで人間的視点で「動物的」と言っているのであって、説明上の言葉遣いでしかない。動物は自然の秩序の中で調和的に生きているとの認識の上で、そういう言い回しになったことをご理解いただきたい。
 
理性の詐術に気づく
 
他人にやさしく自分に厳しくとつね日頃口にしている人が、相手を傷つける言動にまったく無自覚である。

「みにくいあひるの子」を読んで涙を流した子供がいじめに加担して平然としている。

分かち合うことが大切だと言っていながら、独り占めにおさまりかえって反省もしない。

世界的紛争でも凄惨な事件でもない、日常多々ある、ほんの些細なことである。けれども、そのなかに人間のふりした欺瞞が忍び込んでいる。形こそ小さいが、その存在の救い難さを強烈に放っている。もちろん、僕を含めて・・・挙げていけば切りがない。

人間とはそもそも矛盾した生き物であり、欺瞞を弄する自己中心的な動物である。理性でもって仲良くなるのではない。そうでははなく、仲良くしないと生きていけない弱い動物だと自覚した時から、人間になっていくのである。理性の中に謙虚さの感情が宿ったとき、この傲慢な動物は本当の意味で人間へ進化していく。

このようにまわりくどく考えない限り、ひねくれものの僕は、小学校の先生がいともやすやすと口にする「誰とでも仲良くしましょう」という言葉が腑に落ちないのである。
 
参考記事:愚放塾の教育論
「教育は綱渡り、教師は魔術師である」
「生きることは楽しいと言い切るゆとりのある人間が我々の中に何人いるだろう」
「大学不登校・休学生のための愚放塾版「いのち」の授業」
「教師-生徒関係とは悪く言うと、権力関係である」
 
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