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「やるっきゃない」のトラウマ(1)
2015/4/5 塾長ブログより
 
「やるっきゃない」という言葉の由来
 
ずいぶん前に、「やるっきゃない」という言葉が流行った。僕らの年代なら覚えているだろう。しかし、いまはまったく聞かない。もう死語と認定してもよさそうである。

なぜか僕はこの言葉が嫌いだった。ふと思い出して苦笑している。

なぜ嫌いなのか?

勢いがあってノリがいい、踏ん切りがいい、スカッとして気持ちいい、「きゃ」の響きがいい、おちゃめな感じがいい、改めて印象を挙げてみたが嫌いになる理由は見当たらない。

あまり深く考えても仕方がない。そう思いながらも、僕にとってはなんか耳触りな言葉にはちがいなかったとあらためて確認している。

この言葉、もとをただせば、土井たか子が社会党の党首に就任した時に発した言葉とされている。正確には「やるしかない」である。当時の社会党は党首適任者の慢性的不足にやむなく土井たか子に白羽の矢を立てた。そのようなお家の事情もあったが、結果的には憲政史上初の女性党首が誕生した。

とはいうものの、経緯から党内には冷ややかな空気が流れていたのは否めない。土井はそういった党内の状況を承知の上で引き受けたのであったが、一旦引き受けた限りは自民党の対抗勢力として、党をまとめ上げて力を一つに結集させる覚悟で就任に臨んだのであった。「やるししかない」は、その並々ならぬ気持ちのあらわれた言葉だったのである。

たしかに「やるしかない」という発言は、土井たか子らしい。そういえば「ダメなものはダメ」もおたかさん語録としてある。口を真一文字に結んできりっと睨む大きなあの顔が浮かんでくる。

その後、選挙に大勝して、これも流行語となった「マドンナブーム」を巻き起こした。そして、土井たか子が発した「やるしかない」という言葉は「やるっきゃない」とかわいく変えられ、世の中に受けられていった。若者を中心に幅広く使われるようになったのである。
 
「やるっきゃない」という言葉の嫌いな理由
 
ところで、この言葉、文法的には「やる」という動詞に「しか」という限定の助詞がつき、「ない」という打ち消しの助動詞と組み合わせた句であり、「やるしかない」を辞書的に説明すると、「他に選択肢がなくそうするより仕方がない」という意味になる。「やるしかないからやるしかない」の言い方も別段おかしくない。したがって、この言葉、普段捉えられているよりずっと思い切ったニュアンスをもっている。万策尽きて行動に打って出るような賭けの言葉で、覚悟のような強い気持ちが伴うことが、要求されて然るべき言葉なのだ。この解釈においては、土井たか子の使い方は全く正しいと言えるだろう。

僕がこの言葉が嫌いな理由もどうやらそのあたりにあるようだ。

「やるしかない」が「やるっきゃない」と当時の風潮に最適化され、誰もがいとも簡単にこの言葉を使うようになった。そのあたりに僕は嫌気が差したのかもしれない。

気軽に気合を入れたいときに、気楽に団結しようとするときに、あいさつ程度に軽く励まそうとするときに、照れ隠しのノリでやる気を示めそうとするときに、格好のコミュニケーションツールとして「やるっきゃない」が使われるようになった。、その言葉からなしくずし的に「覚悟」が抜き取られ、間柄を和ませ場を盛り上げるための浮薄な言葉として、人から「やるっきゃない」と言われると、虫唾が走るようになっただろう。むろんのこと、その言葉を聞いただけでも嫌悪感が奔った。
 
言葉という暴力装置を解明する
 
哲学者の中島義道氏は、美しいはずであった言葉が人の口の端にかかって次第に暴力的に変節していく様子を、次のように批判している。

「東日本大震災以後、本来美しい響きを持っていた「絆」という言葉は、いたるところで叫ばれ、いたるところに貼り付けられ、次第に標準化され、定型化し、硬直化し、それに反する者を裁き排斥する暴力的言語に変身していった。かつて「八紘一宇」や「一億玉砕」などの標語が暴力装置として威力を発揮したように」

言葉とは本来手あかにまみれる宿命を持っている。それだけではない。人々の口にのぼって馴染んでいくに従って、次第に形骸化し強制装置として機能しだす、その装置としての暴力性に対して中島氏は舌鋒鋭く論じている。

たしかに「やるしかない」が「やるっきゃない」として世の中に浸透していく一方、本来持っていた「覚悟」を示すような個人的な側面が取り払われ、みんな一緒に「やるっきゃない」といった集団行動にまで発展しかねない危うさがある。いつまでもぐずぐず考え行動しない人を軽蔑し排除する暴力装置だといえなくもない。

「絆」という言葉がみんなとつながることを強制する暴力装置に堕したとすれば、「やるしかない」は思考停止を強制する暴力装置として世に広まったのかもしれない。

当時「やるっきゃない」的な思考停止装置が世の中全体に作用しなかったのだろうか。消費税値上げ反対で社会党が大勝ちした結果も思考停止装置のなせる業ったのか、そして、いまはどうだろう。あれからもう25年以上が絶とうとしているが、たしかに「やるっきゃない」は死語になった。しかし、思考停止は生き延びて世の中の隅々まで瀰漫している、そうでなければよいが…

しかしながら、僕のこの言葉に対する嫌悪はさらに根深いところから発信さているように思われるのだ。

to be continued
 
「やるっきゃない」のトラウマ(2)
 
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