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自分自身の人生を無意味に思う人は、不幸であるばかりか、生き抜く力も湧いて来ない。
2015/4/21 塾長ブログより
 
「衝動」と「価値」の違いとは?
 

人間は決して道徳的衝動へと駆り立てられるものではありません。個々の場面において、人間は道徳的にふるまうことを決断するのです。人間は道徳的衝動を満足させるために、あるいは良心に恥じないようにするために決断するのではありません。  

                       「意味による癒し」

フランクルは「衝動」と「価値」の区分を明確にする。

根源的な力を解放するといっても、「衝動」のなすがままを許すことではない。「価値」は、人間を駆り立てる「衝動」からは生じない。放り出すのではなく、引き寄せるものなのだ。
 
人間の根源的な力を解放する
 
「価値」とは、自分の意思によって「引き寄せる」ものだ。「引き寄せる」という言葉に含意されているのが「自由」であって、自らの意思によって「価値」を引き寄せるときに一緒にもたらされる「自由」こそが、人間の根源的な力を解放するのだとフランクルは述べる。

人間が意味や価値を探し求めることは、確かに、内的平衡よりもむしろ内的緊張を引き起こすでしょう。けれども、まさに精神的緊張にとって欠くことのできない条件なのです。私はあえて断言しますが、人生には意味があるのだと知っているときほど、最悪の条件にあってすら人間を立派に耐えさせるものはほかにありません。次のニーチェの言葉には優れた知恵が含まれています。「生きる理由を持っている人は、ほとんどの事態にも耐えることができる」。すべての精神療法によって真実である標語をこの言葉の中に見ることができます。ナチスの収容所で証明されたことですが、(さらに後に日本と朝鮮でも、アメリカの精神科医たちによっても確認されたことですが)、満たすべき使命が自分を待っていることを知っている人ほど、その状況に容易に耐えることができたのです。   (「前掲書」)

 
不条理に耐える必要などない
 
さらにフランクルは「超意味」という用語を使って、その言葉を「人間の有限な知的能力を越え、それを凌駕することの意味」と定義する。人間に求められているのは、実存哲学者が述べるように、人生の不条理の前でその無意味さに耐えることではない。

もっとも、いきなり不条理に耐えろといっても無理な話ではある。人間は無意味な状況のなかで生きられるものではない。思い出すのが、ドストエフスキーの「死の家の記録」だ。囚人に土の山を別の場所に移し、またもとの山に戻すといった仕事を永遠に繰り返させたら、その無意味さに耐えきれずに数日のうちに気が狂うだろうとある。

フランクルの議論は不条理から話の舵を切る。不条理の無意味さにわざわざ耐える必要はないと展開する。耐えれば耐えるほど人間の可能性を奪ってしまうだけだと述べる。

人間は絶望的な状況、その不条理な運命に見舞われたときこそ、それでもなお、いや、だからこそ、人生に意味を見出すことができる。人間の可能性はいかなる状況にあっても「人間の有限な知的能力を超え、それを凌駕する超意味」を見出すことにある。超意味を見出すことによって、自己変革が可能になるのだと。

たしかに人間の生活から意味が抜き取られたら人間は動物のようには生きていけない。一本の葦のように弱い生き物である。「意味の病」に憑りつかれた考える葦。人生から生きる意味をことごとく奪い取られたとしても、それでも意味を求めて生き続けるしかないのが人間の弱さであり、また強さでもある。逆から言えば、意味の病に罹っている人間はいかなる時においても意味=目的を見出す「熱」を有している、それが人間の存在理由なのだ。

意味は苦悩のなかからさえでも「絞り出す」ことができるという事実によって、人生は、文字通りその最後の瞬間まで、最後の息を引き取るまで、潜在的に意味があるということが示されています。けれども、誤解のないように申し上げたいことは、意味を見出すためには、苦悩が必要不可欠だというわけでは決してない、ということであります。私はただ、苦悩にもかかわらず意味が可能であると主張しているにすぎません。                     (「前掲書」)

 
苦悩を手段とする
 
癌に罹り余命宣告された身で、それでもなお生きる意味を見出すことなどできるのだろうか。はたして意味の病は癌の病を凌駕するのであろうか。

キュブラー・ロスは「死ぬ瞬間」のなかで、死を宣告されたがん患者が死を受容していく過程を示した。それは「死の受容5段階モデル」として人口に膾炙した。しかし、最終段階の「受容」すなわち自分の死を受け入れる段階に誰もが到達することができたのだろうか。なかには死に至るまでもがき苦しみ「受容」を達しえなかった人も数多くいるのではなだろうか。キュブラー・ロス自身、晩年脳梗塞で倒れ、静かな死の受容を果たしたわけではなかった。

死の受容は一見生の放棄のように受け取られるが、そうではない。裏を返せば、残された時間を意味ある時間として生きること。生に意味を見出すことである。

なるほど余命を知りながらその時間を全うすることはそうやすやすとできることではない。生きる意味を生の現場で見出すことは余程強じんな精神力が要る。来世に意味を見出す人がいても少しも不思議ではない。しかし、フランクルが述べているのはあくまでこの世でのあり方であり、来世のことは最初から問題視してない。

余命宣言され残りわずかな生に「生きることの意味」を見出す作業は並大抵の人にはできない偉業である。凡俗にはとおく及ばない難題にはちがいない。

しかし、フランクルがこの難題に対して答えを用意してないわけではない。「苦悩の存在論」という著書の中で、「苦悩を受け入れると同時に、それを志向するだけではなく、その苦悩を通じて苦悩とは違った何かを志向する。そのとき苦悩を超越するのです。…意味豊かな苦悩とは『…のための』苦悩であり、苦悩を自己目的化することではありません」と。

いやはや、これまた厳しい生き方を突きつけられた。しかしながら、そこに真理のひとつの姿を見ることはできないだろうか。

癌で死にゆく人が、たとえば癌そのものではなく、別の何かのために苦悩する。もしいまの苦悩が最愛の人の幸せのための苦悩だと考えるようになれたならば、苦悩を生き抜く証しが見いだせる。その在り方に生きるヒントがあるように思えてならない。意味の病に罹った人間も最終的には愛によって救われるのではないか。施される愛によってではなく、自ら捧げる愛によって自己の苦悩を超越した、生きる意味を受け取るのではないだろうか。

少々難しい議論になったので、要約しよう。

先のブログで幸福はそれ自体目的化できないと書いたが、フランクルの議論に沿えば、幸福と逆対応して、苦悩も自己目的化できない。苦悩を解消しようとしてもがけばもがくほど苦悩は増していく。そうではなく、自らの苦悩の解消を目的化せずに、いまの苦悩を別の何かの目的のための手段とするのである。別の何かを達成するために今の苦悩があるという考えが訪れたとき、苦悩を受容することができる。苦悩するその過程を通じて苦悩が解消するのだ。苦悩が生きる意味に転化されるのである。

自分自身の人生を無意味に思う人は、不幸であるばかりか、生き抜く力もわいてこない(アインシュタイン)

 
参考記事:
「生き方に迷っているあなたへ」
「生きているのではなく、生きていくことを学ぶ、それが愚放塾の演劇ワークショップ」
「なぜ『愚放塾』を創ろうと思ったのですか?(Q17)」
「変革体験は幸福を永遠に刻印する」
 
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