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「それでもイエスと言えるだろうか?」
2015/4/20 塾長ブログより
 
最悪の状況で最高の価値を実現する?
 
昨日に引き続いてフランクルの文章を引用する。

それは手術不能な重篤な脊髄腫瘍のために入院している1人の青年であったが、職業的な活動をすることはすでに長い間不可能であった。即ち、麻痺現象が彼の活動能力を阻んでいた。従って彼は創造価値を実現する機会にもはや恵まれていなかった。しかし、なおこの状態においても体験価値の世界が開かれていた。即ち彼は、他の患者たちと精神的に優れた会話を交わし、(同時に彼らに勇気と慰めを与え、)多くの良書を読み、また特にラジオでよい音楽を聴くことに専心いた。しかし遂に彼は或る日、もはやレシーバーを掛けるに堪えられなくなり、また次第に増加する彼の手の麻痺によって本を手にもつことができなくなった。ところがいまや彼はその生活に第二の転換をなした。即ち彼は創造価値から体験価値に退かねばならなかったのであるが、さらに態度価値に向かうことを強いられたのである。(しかしあるいは、彼が他の患者に対して忠告者であり模範であったから、われわれは彼の行動を異なって解釈することができるであろう。なぜならば彼は勇敢に苦悩に耐えたからである。) 死の前日に・・・彼はそれを予見したのであるが・・・彼は当直の医師が彼に適時にモルヒネの注射をすることを委託されているのを知った。さてこの患者はその時何をしたであろうか。この医師が午後の回診にきた時に患者は注射を夕方してくれるように頼んだ・・・医師が彼のために夜起こされなくてもよいためだった。
                                                                  (「死と愛」)

この文章は死の苦しみの中でも他人を思いやる行為を称賛しているのではない。まして美談でもない。もちろん、生きる意味を問うている。

人間であるならば、どんな状況に置かれようと「最高の価値」を実現する方向へ向わせるはずである、これがフランクルの思想の核心である。半端な信念ではない。ナチスの収容所の苛酷な状況の中でフランクルは一時も人間の尊厳を失わずに「生きる意味」について考え抜いたのだろう。
 
それでも人間の可能性を信じる!
 
フランクルが発する問いは、不自由なく満たされた環境こそが幸せだと思っている生活者には余計な煩瑣に感じられるかもしれない。しかしながら、この問いかけが意味を持つのは、不慮の事故や重篤な病、もしくは突然の災害などで自由を奪われてしまった者だけに限られるのだろうか。

極限の状態に見舞われないかぎり、いくらこの問いに向き合ったところで観念の遊びにすぎないのではないか。たしかに、そうかもしれない。あるいは、もし不幸にもそのような状況に襲われたならば、苦しみに耐えきれず、その実際は生きる意味を問うどころの話ではないのかもしれない。率直な感想である。

しかしそれでも、問う意味はあるとフランクルは言うにちがいない。

というのも、フランクルは人間の生命が持っている根源的な力を信じ、意思によって人間はその可能性を開くことができると考えていたからである。どんな状況におかれようとも、たとえ不自由のない満たされた環境にあっても、自らの意思で「創造の喜び」「愛の喜び」を体験することができる、そのゆるぎない信念を持っていたからである。

なるほど収容所の体験があったからこそ、フランクルは人間の可能性に対して目を見開かされた。そのことに間違いはない。命が一時も保証されない不安と恐怖を前に、血の凍るほどの戦慄のなかでさえ、ほんの一握りの人々ではあったが、些細なことに喜び、つねに生きる意味を創造しながら、絶望の中でも「生の価値」を見失わない人々がいた。この事実を目の当たりにして、フランクルは人間の偉大さを教えられたにはちがいない。

そして、苛酷な運命の前でも人間にはその運命を前向きに受け止め、そこに「生きる意味」を見出す創造力や愛が具わっているという信念がフランクルの中で形成されていったのである。フランクルは、収容所から奇跡的に生還した後、ロゴセラピーを考案する。

「ロゴセラピーは、教育でも宗教的教説でもない」とフランクルは言う。誰しも自らの意思で持ち前の可能性を十分に発揮させることができる、そうして誰もが自らに課せられた使命に気付き、その責任を全うする能力をもっていると言う。フランクルの人間に対する深い愛と信頼が、その言葉には含意されているのである。

to be continued→「自分自身の人生を無意味に思う人は、不幸であるばかりか、生き抜く力も湧いて来ない」
 
参考資料
「なぜ『愚放塾』を創ろうと思ったのですか?(Q17)」
「いまを生きるか、いまに生きるか、どっちを選ぶ?」
「大学休学、不登校生の復学・復帰ための多重人格のすすめ」
「死の経験」を潜ること、それは真の生き方を学ぶこと!
 
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