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変革体験は幸福を永遠に刻印する
2015/4/18 塾長ブログより
 
人間の証明
 
「原自」(昨日のブログ参照)はたえず生成変化している。あるがままの自分を自己呈示する「演技」装置として、自分と向き合い、人と向き合い、その場数を踏んでいく。ランダムな経験のなかで、「原自」自体が変容する。精度値が上がり、微細な自分のひとつひとつを関係付けながら、洗練した「演技」にまで素朴な自己呈示を練り上げる。そして、その人ならではの生き方のスタイルを築き上げる。

神谷恵美子は、医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、ハンセン病治療に生涯をささげた人だが、その著書を読むと、苦悩の中から自分とじっくり向き合い、時間をかけて、自分の生き方のスタイルを築いていった患者の話が出てくる。

精神化(生存の重みなり基盤なりの全体が精神の領域に大きく傾くこと)にむかないというひとは・・・とくに衝動的な人間で、思ったことをすぐに行動に移してしまうひと、確信がつよく自己について疑うことがなく、自己観察、自己分析のしにくいひとは、自分の精神のなかにほかの観念を取り入れてみることが少ないから、精神生活が深く掘り起こされることも、こまかく分化することも起りにくい。してみると、何故苦しんでいるひとのほうが精神化にむかいやすいかということが、かなりわかってくる。たとえば、何年も病床に釘付けになっているひとにとっては、精神というものがどんなにか大きな意味と役割をもっている 。このひとには、精神の世界に生きる以外には、人間らしく生きる道がほとんど閉ざされているからである。卑近な例においても、本が買いたくても買えず、勉強したくても時間のない状況にひとの好学心は、その妨げゆえにかえって心の中で大きな広がりと力をおびるようになる。こういうひとのなかにこそ、きわだった精神化の現象がみられる。苦しみを通して得られた知的満足は、純粋であり、これこそ生きがい感と呼んでよいものう。               「生きがいについて」

彼女が長年ハンセン病患者と向かい合いながら得た一つの確信とは、人間であることの存在証明は精神化でしかないということである。患者自身がハンセン氏病の悲惨な現実と向かい合いながら、生きることの意味を掘り起こしていった、その精神化の過程を記述している。

「あるがままの自分」を認め、その自分を受け入れ肯定してはじめて、「原自」はフル稼働する。ハンセン病患者はその働きを十全に活用している。
 
今の状況から出発する
 
「原自」とは前向きな社風のもとで生き生き働く組織のようなもの。自分という平面に生じるあるがままの出来事を肯定してはじめて「原自」のつながる力が、そして、「演技」する力が発揮されるのである。

ハンセン氏病の患者たちの苦悩は計り知れない。僕ごときの者の想像を絶する体験が、そこにはある。それでもなお、その現実を、その人生を肯定する精神に、僕は、驚嘆の声を発せずにはいられない。

強靭な精神において「原自」は、その能力をいかんなく発揮する。繰り返すが、「原自」は、無数のありのままの自分が明滅する、そのバラバラで取り留めのない運動を関係づけ組織化する。あたかも勝手に発火を繰り返していたニューロンが同期して、新たなシナプス回路が創設されるように、自分と新たにつながり、自分を新たに組織化して、新たな「演技」を可能にする。

患者は過酷な運命とその苦悩の中にあっても、人生に誠実に相対し、自分と向き合い、与えられた命を生き抜こうとする人の、その精神の深部において、あるつながりが生まれやがて新たな組織化が起こる。神谷美恵子のいう患者に「精神化の現象」が見られるようになる。自分だけにしか与えられない「演技」の仕方、すなわち「生きる」ふるまい方が身に着いていき、その生き方を通してその人ならではのスタイルが築かれていく。

神谷美恵子は「変革体験」について、次のように述べいる。

ひとたび生きがいを失ったひとが、新しい生きがいを精神世界に見出す場合、心のくみかえが必然的におこる。このくみかえはごくゆっくりと本人も気づかれないうちに少しずつ行われていく場合もあるが、本人も驚くほど突然に、急激に生じることもある。・・私たちがここで問題にしたいのは、普通の人にも起こりうる、平凡な心のくみかえの体験である。これを私たちは「変革体験」とよぶことにした。・・・苦悩の果てにやっと光に接するのであるから、この種の体験には、ふつう大きなよろこびがともなう。しかしこれをうけとめる心の姿勢には、自らの力で苦闘して光をかちとったと感じるものから、まったく他者の力によって光を与えられたと体験するものまで、さまざまなニュアンスの差がみられる。・・・ともあれ、真摯な探求と悩みなしに、人の心に光明がもたらされたためしはない。しかし、また精一杯の求道ののちに発見される光は、自分ひとりの力で創り出したものとしてはあまりにも輝かしすぎるのである。ゆえにパスカルは、「安心しなさい、お前が私を(すでに)みいだしていたのでなければ、お前は私を探し求めはしなかったろう」とキリストに言わせている。    「前掲書」

平凡に生きることの幸せを忘れるのが凡人である、よく耳にする言葉である。そうはいうものの、幸せそうに見える人にも少なからず苦悩はある。人生とは頼りなくいつも綱渡りをしているようなものである。自分という存在にしても、自他関係の網をよろけながら渡っている、そんなか弱い存在である。
 
幸福とは何か
 

世の風潮として苦を排除する傾向にはないだろうか。「苦は速く過ぎ去れ、一時でも速く快に浸りたい」といわんばかりに、幸福を追い求めてはいないだろうか。

「あんまり必死になって幸福を追いかけてはだめだ、幸福を追い越して後ろにおいてきてしまうから」というブレヒトの「三文オペラ」のセリフ。そう言われてみれば、誰もが思い当たる節はあるだろう。追い求めてやっと追いついたと思った瞬間すでに幸福は目の前から消えている。幸福とは逃げ水のようなものだ。

神谷美恵子の文章を読むと、幸福の逆説性が浮かび上がる。幸福とは目指して得られるものではない。幸福は決して目的にならない。むしろ、目的をもって生きている過程に幸福はあるのではないか。

幸福とは地平線のようなものだ。いくら歩いても地平線には永遠に到達できない。しかし、歩みを止めて視点を落とし真下を見てみる。はるか後方からは見れば、今立っている所が地平線に見えるはずだ!とすれば、すでに地平線に立っているではないか。一歩一歩歩いているそれだけで地平線に到達し続けている。足を置いた地面をしっかり踏みしめる、それが幸福を生きることだ。ハッと気づいた。
 
変革体験
 
生きがいを奪われるような激しい苦悩を強いられて、なおその現実を受け入れ肯定した時、「原自」が発動する。苦しみの中で、自身に「つなぎなおし」が起こり、精神に新たな自分が組織される。この組み換えの過程を神谷恵美子は「変革体験」と呼ぶ。

苦しみのさなかから、その闇にさっと一条の光が差し込む。あたかも時間が止まったような瞬間が訪れる。「変革体験」に幸福が永遠に刻印される。、ひょっとしたら幸福とはそういうものかもしれない。生きる重力が溢れる文章に触れてそんな感慨も湧いた。

瞬間に対して私は言いたい、どうか止まってくれ、お前はそれほど美しい、と。私の地上での生の痕跡は未来永劫滅ぶことはないだろう。このような大きな幸福を予感しえ、私は今最高の瞬間を享受するのだ。(「ファウスト」ゲーテ)

 
参考記事:
「変わりたいのに変われないのは、なぜ?」
「人生は何度でも新しくなる。」
「『なりたい自分になる』演劇レッスン」
「滅びの力を利して生きること、それが自然の摂理である」
 
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