ホーム >塾長ブログ >小豆島愚放塾 > 塾生募集 >大学休学、不登校生に問う、いまを生きるか、いまに生きるか、どっちを選ぶ?

 

いまを生きるか、いまに生きるか、どっちを選ぶ?
2015/3/30 塾長ブログより
 
「を」と「に」とで意味が大きく違う
 
まずはじめに、標題の「いまを生きる」と「いまに生きる」の意味を比べてみてほしい。

どう違うのだろうか。助詞の「を」と「に」の違いだけであるが、ニュアンスの違いは分かる。

はたして、どこが、どう違うのだろうか。

たとえば、与謝蕪村の「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」という句がある。

「愁いながら岡にのぼったところ、花茨が咲いていた」ほどの意味である。

ところで、この句を「愁ひつつ岡をのぼれば花いばら」と変えてみる。「岡に」を「岡を」と入れ替えてみよう。

前の句と意味が大きく違ってくる。「愁いながら花茨の咲く岡をのぼっている」という意味になる。どちらの句が秀逸なのかは明らかであろう。

前者は、「悲しい気分でいたのだが、花茨の咲いている岡の上に立ったら、その気分もすっかり吹っ飛んでしまった」という解釈も成り立つ。この句からは読み手それぞれの解釈が可能だ。対して後者は、「悲しい気分で花茨を見ながら岡をのぼっている」という解釈に広がりを持たせることは難しい。解釈は限定的になる。

「に」と「を」の使い方ひとつで、解釈の点でこんなにも異なるのだ。
 
生き方の違い!
 
「いまを生きる」か「いまに生きる」かは、解釈の問題ではない。もちろん優劣の問題でもない。その違いは、生き方を通してあらわれてくるはずである。

もっとも「『を』であろうが、『に』であろうが、些細なことだ。どっちだっていい、いまを充実して生きればいいんだろう」という声がすぐにも聞こえてきそうだが、そう結論を急がず、「いまを生きる」と「いまに生きる」との違いをじっくり考えてみようではないか。

まず「いまを生きる」とは、字義通りにいえば、次から次へと訪れる「いま」という時間を生きる姿勢のことだろう。すなわち「いま」を受け取りながら、能動的に対処していく姿勢である。この観念的な言い回しを、順を追って具体的な生活の場に落と込んでみよう。

身に降りかかってくる出来事を、正面から受け止めて対処していく生き方である。けっして大袈裟なことではない。些細なことでいい。ひとつひとつの事を、火急の問題のように真剣に生きるのである。

手を洗うときは手を丹念に洗い、手を拭くときは一滴も残さないように隅々までしっかり拭く。禅の修行のようである。生活していくなかで「いま」という時間を余すところなく使い切るとは、結局はすべての事を丁寧に扱い、誰にでも出来そうでなかなかできない、こうした所作を徹底することである。その積み重ねが生きていく構えをつくり、生きていく力を育んでいくのである。

つぎに「いまに生きる」を考えてみよう。

それは姿勢というより態度である。「いま」という時間の中に心を投げ入れる態度。その「いま」は訪れる「いま」ではなく、止まった「いま」である。熱中して時を忘れる「いま」である。とすれば、「いまに生きる」とは、掘り下げる時間である。つまり、「いまを生きる」が水平的な時間で流れ去るのに対して「いまに生きる」は垂直的な時間であって流れない。「いま」という時間は、本来の自分と出会う時間である。
 
「いまを生きる」から「いまに生きる」へと段階を踏む
 
森田療法という精神療法がある。

精神科医森田正馬によっておもに神経症に対して開発された療法であるが、この森田療法では、最初の一週間ほどは、患者を個室に隔離し何もさせない、「絶対臥じょく」という治療が行われる。ただ寝て起きて食べるだけの生活を徹底させると、あれほど無気力で生きることに疲れていた患者も、何かさせてくれと訴えてくるようになる。この「生の欲望」が湧いてきた時を見計らって、作業を与える。患者に作業は選ばせない。与えて丁寧にするように指示するだけ。たとえば草取り。指定した範囲を隅から隅まで草一本残さず取り去るように告げる。何かしたくてうずうずしていた患者は水を得た魚のように作業をし始めるらしい。

この段階が「いまを生きる」の生きていく構えをつくる段階である。

与えられた作業を丹念にしていく、いわば「いまを生きる」治療が進んでいくと、患者に自分のこころに嘘をつかないことを注意させる。作業をしたくないと思ったらしたくない気持ちを自覚させる。かといって作業を放棄させるのではない。続けさせる。患者は目の前の作業を丁寧にしながら、そのとき生じた気分や感情を抑えつけずに受け入れる態度を次第に身に着けていく。気分や感情にとらわれずに目的を遂行する力を養うのである。
この段階が「いまを生きる」の生きていく力を育む段階である。

作業を通じて「あるがままの心」を感じる経験を積んでいくうちに、あるとき、何かに夢中になっている自分に気づく経験をする。
この段階が「いまに生きる」の本来の自分と出会う時間の段階である。

ここまでくると、森田療法の範囲を超えてしまうのだが、先へ進めよう。たとえ嫌な作業もあるがままに受け入れながら、そこから逃げずに行動する力がついてくると、いままで怖くてできなかった事にも挑戦ができるようになる。たとえ失敗したとしても、その時の気分や感情をあるがままに受け入れながら、再度挑戦する力が身についている。
試行錯誤を繰り返せる力が身についてはじめて熱中できる何かが見つかる。本来の自分と出会えるのである。
 
成長は時間感覚の変化にあらわれる!
 
「いまを生きる」と「いまに生きる」、その違いをまとめよう。

人生の迷路に迷い込んで出口が見つからずどうしていいかわからないとき、そのきっかけを与えてくれるのが「いまを生きる」という時間感覚であり、自分を見失って進むべき道がわからなくなったとき、進むべき方向を指し示してくれるのが「いまに生きる」という時間感覚である。

そう言えないだろうか?
 
参考記事:いまできることから才能が開く、愚放塾の教育論
「生き方に迷っているあなたへ」
「10,000時間熱中するには?」
「このあいだ卒業した塾生はなんと享楽経験をした!」
「大学休学、不登校のみなさん、人生の休日を「天分を開く」期間にしませんか?」
「大学休学生は復学を目指す以前に何を極める?」
 
ホーム >塾長ブログ >小豆島愚放塾 > 塾生募集 >大学休学、不登校生に問う、いまを生きるか、いまに生きるか、どっちを選ぶ?