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滅びの力を利して生きること、それが自然の摂理である
2015/3/18 塾長ブログより
 
焔に魅入られるのはなぜ?
 
最近、焔をゆったりと見る機会がめっきり少なくなったのは、嘆かわしいことである。

世には「焚火の会」なるものもあって、焚火をしてその周りに座って漫然と火を眺めながら雑談するだけのことらしいが、焚火の焔が心的作用をもたらし精神衛生上の効果があるという。

僕らの小さいころは、秋も深まり木枯らしの吹く寒い季節が到来するまで、寸暇を惜しむかのように、うず高く掃き集めた落ち葉を焚いて、大人たちは焼き芋を手に一杯飲みながら、そのまわりを子供たちが遊びまわっている光景をよく目にした。

今は消防法の規制が厳しくなり、気軽に焚火もままならない。焚火すら昔語りになってしまった。

そういえば、「どんどん焼き」も懐かしい。

正月14日に行われる行事で村の子供たちがリヤカーで各家々から集めた正月飾りを、大人たちが前日から井桁型に組んで積み上げた槇と一緒に燃やす。2,3メートルにも立ち上がる焔を見上げながら、子供たちは各自で工夫を凝らして作った竹竿の串に挿した団子を灰のなかに潜らせて焼いたり、書初めの習字を放り投げ火風に煽られて燃えながら高く舞い上がると字が上手くなると喜んだものだ。

いきなり突飛なことを書いたが、ひとが焔に魅入られるのは、その燃え方からして人間を惹きつけてやまないものがあるのではないか、本を読んでいてそのことに気づかされたからである。
 
焔に学ぶ
 
ロウソクの焔でもいい。

よく観察すると、その焔のきらめきは、ロウが燃えて消滅すると同時に起こっている。いわば一瞬一瞬の消滅が一瞬一瞬の焔を生成しているのである。

ロウソクは燃え尽きながら燃えている。だから、その焔は煌めく。

その観点に立てば、焔のあの魅惑的な揺らめきは、その絶え間ない死が作り出した生の形であるといえないだろうか。

それはそのまま人間の存在の仕方に当てはまる。

細胞の死滅と生成が同時に起こり、刻一刻小さな命の入れ替えによって人間の「いのち」は保たれている。私たちが焔を見て心休まり魅入られるのは、その存在のあり方の親和性を無意識が捉えているのかもしれない。

もっとも、この存在のあり方は森羅万象の働きを貫く「いのち」の原理である。僕の直感がそう頷く。

滅びようとする力に抗うというより、滅びの力を利して「いのち」を形作るのが自然の摂理ではないだろうか。
 
「使い切る」は才能開花の法則
 
愚放塾教育方針に「自分を使い切る」がある。

「自分を使い切ること」、それは滅びの力を利してまさしく「いのち」を形作ることと同じではないか・・・雨降りで朝から何もすることがないので本を読んでいると、偶然焔の話と出会った。この腑に落ちた経験があって、いささか唐突であるが、今日は焔の話題から入ったのである。

自らをなげうって自分を使い切ることによって、同時に新たな自分の誕生に立ち会う・・・現に塾生君はなんどもなんども自分を使い切って過去の自分を殺し、新たな自分になんども脱皮して、そうして、自分がつぎからつぎへと創られていく。

才能があってもそれを使わない限りそれは才能とは言わないだろう。それどころか、「いのち」の原理に則るならば、自分を使い切らない限り才能は出現しない。才能が内在して外在化するのではない。そうではなく、自分を余すところなく使い切った同じ場所に才能が宿るのである。

いうなれば、才能開花の原則である。
 
参考記事:
→AIに取って代われないために「スティーブ・ジョブズのつながる力を信じるとは?」
→情動と感情の違い「生きているのではなく、生きていくことを学ぶ、それが愚放塾の演劇ワークショップ」
→愚放塾の才能教育「大学休学、不登校生の復学・復帰に向けた才能開花法」
→塾生の成長記録「『自分を使い切る』とは、どういうことか?」
 
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