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大学休学、不登校のみんな、居場所とは何だと思う?
2015/1/27 塾長ブログより
 
聞き手によって言葉の重みは変化する
 
わざわざ言葉にしなくてもいいことを口することは、概して不要なこと、いわば無駄口のように扱われる。愚痴もそうであるが、言葉を伝達の道具と考えるかぎり、不要な言葉はときとして、うっとうしくも感じられる。

しかし、その不要な言葉をやり取りする、あるいは、言わずものがなの言葉を聞いてもらう行為にこそ、人間の存在にまつわる大きな意味を見出すことができるように思える。

たとえば、とりとめもないことを延々と話す無駄口も、恋人同士の会話となると、「好きだ」という言葉よりもすぐれて愛の確認行為といえないだろうか。

たとえば、言ったところで仕方がないと分かっていながら言わずにいられない愚痴も、黙って聞いてくれる相手の存在によって、カウンセラー以上の癒しになるのではないか。
 
斜めの関係が居場所を作る
 
そういえば、帰宅するなり、お母さんの傍らで今日学校であった事を話す子供、そして夕飯の支度をしながら聞くとはなしに聞いているお母さん、ここに愛と癒しの関係の原型を見ることはできないだろうか。

子供は真剣でもお母さんは片手間で聞いている。かといって、お母さんは聞いていないわけではない。

そのお母さんは、「ちゃんと話を聞くから後にしてね」と言うべきなのだろうか。

むしろ、母親と向かい合って真剣に聞かれて、かりに話すそばからいろいろツッコマれたら、子供は途端に話す気をなくしてしまうだろう。

子供にとって母親は目の前にいる聞き手でありながらも、内容についてを何も言わない、聞き流しているだけでの存在であるからいいのだ。

子供は決して壁に向かって話しているわけでははない。自分の話に耳を傾けてくれている生身の人間がそこにはいる。その関係の何とも言えない塩梅がいいのではないだろうか。

子供はこの微妙な関係性を敏感に感じ取っているから、のびのびと何でも話せるにちがいない。
 
母親のこうした態度は、子供にとっては愛の確認作業になる
 
自分の存在を丸ごと受け入れてくれる母親、どんなことでも受け入れてくれる母親として、子供には心の拠り所が与えられ精神的基盤となって、子供の自我の安定した成長が促されるのだ。

また同時に、子供にとっては癒される結果を生む。心の内にあることを余すところなく話せること、それだけで心が軽くなる、たとえ学校で嫌なことがあったとしても言葉にして吐き出したことで、子供はすでに癒されているのではないだろうか。

おそらく子供にはそうした自覚はないだろう。だが、母親との「ちぐはぐした関係」の中から、子供は自我の存立する場所を心の中に確立していくのではないだろうか。
 
一見ちぐはぐな関係の中に豊かな包容力がある。
 
長年に教育に携わってきた身としては、こうした一見無駄とも思えるような言語行為のなかにこそ、人間存在の欠かせない居場所があるように思えてならない。

無関心のようでありながら決して耳を傾けていないのではなく、放任のようでありながら決して見守っていないのではない。そのズレのあいだに豊かな信頼が形作られる。そして、そこから自我が育ち、自主性が芽生えてくる、どうもそうらしい。

まともに向き合うことが必ずしも良い結果を生まない、このことを僕は経験から学んだ。そのちぐはぐさが持つ包容力が、安心させるのである。そして、そのいかようにも取れる、安らぎの場所から、活力のある心の土がつくられていく。

そうして自分で耕した土壌に自己変容の種がまかれ、自分の力で自分を育て、借り物でない個性となって花開いていくのでないだろうか。
 
参考記事:
→場とは何か:「身体(=身)とは、場を含んだ生命活動である」はこちら
→場の作り方:「大学休学生、不登校生のための『場の作り方』」はこちら
→場づくりのヒント:「教える-学ぶことは切磋琢磨の関係である」はこちら
 
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