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そうじゃない、ただ草刈りがしたいだけなんだ!
2014/12/1 塾長ブログより
 
はやる気持ちと胸のつかえ
 
今日から師走。朝から冷たい雨が降っている。草刈りとはやる気持ちを抑えて、今日は晴耕雨読と決め込んでみたものの、やはり農園に出かけていた。

そぼ降る雨にけぶる農園の、処々青草の刈り残してあるすぐ向こうに、隣の畑の案山子がぽつねんと立っている。その姿は、まるで今の自分を見ているようで滑稽だった。

「草刈りがしたい」という単純明快な気持ちが、平凡すぎるほど飾り気のない姿で突っ立っている案山子に投影されて、それゆえ思わず吹き出してしまったのだ。

草刈がしたい・・・はやく草刈りを終え、次は畝を作ってと、どんどん手順を踏んで、はやく不耕起自然農法を進めていきたいという、当然ながらの思いが、そのはやる気持ちを裏からどんどんつついている。少なからず山っ気の類が先走っていることも否めない。

しかし、そう納得するすぐそばから、「いや、そうともいえない!」という思いが頭をもたげる。むしろ、心の奥深いところから強い力で「そうじゃない!」と押し切ってくる。
 
あまりにも簡単な答え
 
なんだろう、この思いは・・・

この不分明な気持ちを抱えたまま、雨にけぶる農園を見ている僕は、その向こう側で呆然として突っ立っている案山子、まさにそれだった。そして、時をおかず笑いが込み上げてきたのだった。

そうじゃない、ただ草刈がしたいだけなんだ!

僕は心の中でポンと膝を打つと、胸のつかえがとれた。わだかまった気持ちの抜けたあとから思わず笑いが押し寄せてきた。

草刈がしたい、ただただ草刈がしたい、それだけ!

寝起きの雨音を聞いて、朝から憂鬱な気分なった。その原因は草刈りができないことの苛立ちだった、それだけだったのだ。

 
生きる源
 

この陽気な憂鬱の原因こそ、何を隠そう、僕が農業を一から始めるあたって求めてきたことではないのか。
農業に対する根源的なものへのまなざしがあって、それがなにか演劇とつながるものを直感させた、そうではなかったのか。

結果云々ではない。

たしかに収穫することは喜びにはちがいない。演劇もそうだ。演技が上手いといわれて悪い気はしない。しかし、いずれにしても、目的はそれ自体にはないのだ。

太陽と土を根拠に生きている、その確かな実感こそが生きる力の源を形成する。

舞台で体の芯から湧き上がってくる感覚に身を任せ、その表現がいまここに生きている証跡を次々に残していく。

生きること、それは一陣の風のように跡形もなく瞬時に消えてなくなること、その捉えがたさを頭ではなく、体で実感していくことに他ならない。

草を刈っているときの言い知れぬ気持ちよさ、得体のしれない興奮、僕は種類こそ違え、演劇と通じる根源的な感覚に触れたのだった。そのことを再確認したのだ!
 
無根拠な喜びに身をゆだねる
 

俳優は舞台に立つだけで、農夫は畑に立つだけで、言い知れないほどのいい気持ちに包まれる。

本来、演劇も農業も、この明るすぎるほどの健康的な一体性の土台の上で行われるものだったのだろう。

しかし、それぞれに時代の洗礼を受けて、演劇は上手に見せるもの、かたや農業は収穫高を上げるものと変質していった。

演劇、農業のみならず、そういった結果主義、効率重視の風潮が、人々から生きる力の奪い、衰弱させ、あるいは死をもたらしたのではなだろうか。

愚放塾の使命は、来歴を一にする演劇と農業を元の姿に戻して、それぞれの場所から、根源的なものとつながる生の感覚を呼び覚まし、近代によって定義された「人間」の、その歪みから、真の解放を目指すこと。

改めてそう感じた、師走の一日目であった。
 
参考記事:
「滅びの力を利して生きること、それが自然の摂理である」
「『いのち』を分かち合う農業教育」
「大学休学、不登校生諸君、農的「いま」を生きないか?」
「身体性を取り戻そう」
 
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