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教える-学ぶことは切磋琢磨の関係である
2015/1/3 塾長ブログより
 
教える―学ぶをワークショップで実践する
 
教師-生徒の関係は制度であり、一方が他方を強制する、いわば権力的関係である。対して、教える-学ぶは場の出来事であり、互いに触発しあう相補的関係である。

と、先のブログで書いた。そして、前者の教師-生徒の関係が権力的関係であることの説明もした。

今日は、後者、教える-学ぶが場の出来事であり、互いに触発しあう相補的関係であることの考察をしてみたい、具体的な事例として個人対応ワークショップを取り上げ、考えていきたいと思う。

このワークショップの受講者Mさんは職場で指導的な立場にあって、スマホのオペレーターの電話応対のサポートをしているが、なかなかこちらの指示通りに動いてくれない人がいて苦労している。

この「個人対応ワークショップ」はもとよりMさんの発案によるものである。
 
教えるためには、学ぼうとする人がいなくてはならない
 
Mさんは、ひょうんなことから愚放塾のサイトを見て、愚放塾が活動の一環としてプレゼン、マネジメント、コミュニケーション等のワークショップを行っていることから、個人の事情に特化したワークショップを行ってほしいとの連絡してきて、このワークショップの生まれた、そんな経緯である。

したがって私は、Mさんの要請に応じて「個人対応ワークショップ」を企画し、ワークショップの内容、スケジュールもMさんの希望、期待、都合に沿うように組み立てのである。

学ぶ意欲を持ったMさんと教えるノウハウを持った私と契約ではじめて教える-学ぶの関係が成り立った。そこには制度的なものはないもない。あるのは学ぶ者がいてはじめて教える行為が成り立つということだけである。
 
教える-学ぶが、場の出来事であることを説明する
 
ところで、先に教える-学ぶについて私なりの定義を示したが、どうしてそれが場の出来事なのか、疑問に思う人も多いともうので、まずはそのことを考えていくことにする。

出来事と言っても、その言葉はたぶんに多義的で一言で言えるものではない。では、どういうことを指してこの場合において出来事というのか?

この場合の出来事というのは、先の読めない偶発性によって起こるというより、見通しのいい相互性によって起こる、想定外の事態のことだと私は考えている。私はそうとらえている。

個人対応ワークショップを例に挙げて説明してみよう。

私の組んだプログラムに沿ってMさんはワークをこなしていく。一見するとたしかに私の主導で行われているように見えるが、しかし、教える‐学ぶは学ぶものが先立つ関係であると先ほど述べたが、学ぶ側が主体となってその学習の場が成立するのだ。

とすると、端的に言ってどんな事態が想定できるかといえば、たとえば学ぶ側が納得しなければいくら教え方がうまくても教えたことにならないのである。

あるいは、二人の関係に齟齬が生じれば、場合によっては、学ぶ側が教える側を糾弾することもできる。極端な場合、学ぶ側が権力を持つことだったありうるのである。

ある種、そういった危険を孕む教える-学ぶの関係だが、学習の場につねにその危険性が潜んでいるからこそ、「風通しのいい相互性」が生まれるのである。
 
立場が入れ替わった!
 
実際、こんな場面があった。

ワークショップを進めていくうちにMさんの表情が次第に曇り始めた。最初きらきらしていた目から輝きが失われていった。振り返りの時間も十分にとってMさんの感想、意見も聞きながら、慎重に進めていったつもりになっていたので、事はすべて順調に運んでいるとばかり思っていた。

表情の微妙な変化に気づかなかった。

すかさずワークショップのパートナーを務めている塾生からストップが入った。塾生はMさんと同じ立場で私の話を聞いていたので、Mさんの表情の変化を自分とだぶらせて捉えていたのだ。

「木戸さん、しゃべりすぎですよ、Mさんの話をよく聴いてください。Mさんはまだ納得してはいないと思います」

しばらくして、Mさんの口からおずおずした言葉が出てきた。それまでのはきはきした話しぶりとは全く違う調子で、口元には不安の気持ちが表れていた。

「木戸さんは僕のことを買いかぶっています。僕はそんなに優秀じゃあありません」

私はしまったと思った。私の悪い癖が出てしまった。相手を良い点を見つけてはほめて、つい持ち上げすぎるきらいがあって、そのことでいつの間にか自分のペースで話を進めて、相手を置き去りしてしまうのだ。

たしかにMさんは意欲的で、私に求めてきたり、私の求めにも懸命に応じてきた。しかし、そこに盲点があった。意欲的な人ほど、無理してしまう。こちらがレベルを上げても、無理して頑張ってしまう。そして、いつのまにか私の期待に応えようとして、消化不良を起こしてしまうのだ。

幸いMさんは僕に噛みつきはしなかったが、「言ってることがさっぱり分からねぇよ」とふてくされて言われたら、私の立場は一転して教える側から「学ぶ立場」に急落したはずだった。

心優しいMさん相手だったから、教える立場から転がり落ちこそしなかったものの、私は素直に謝って、教え方を学ぶモードに態度を変更せざるを得なくなったのだった。
 
場が変わった!
 
お互いに立場が入れ替わった。

相互性によって、出来事が起こり、場が大きく動いたのである。状況は一転してMさん主導のワークショップへと変わった。

いったん場が動き出すと、さらに風通しはよくなり、お互いが互いの言葉に耳を傾けあい、教える-学ぶの関係を変容させながら、最後は当初予定していたプログラムとは、全く違った想定外の地点へ逢着したのである。

私自身、教えることがそのまま学ぶことであることを実感し、Mさんによって私の中の思いもよらぬものが引き出され、大いに勉強になった。Mさんもワークショップ後の感想では大変満足されたようであった。

互いに触発しあう相補関係とはこういうことを言うのではないかと思う。
 
参考記事:
→ダメ教師奮闘記塾長インタビュー「先生をしていた時に、なにか思い出があったら教えて下さい。」(Q11)
→些細なことを軽視して学級崩壊を経験:「教師の皆さん、些細なことを大切に!」はこちら
→閉塞した教育を打破しよう:「教師-生徒関係とは、悪くいうと権力関係である」はこちら
→人前恐怖症の僕が教師になった訳:「僕が教師になったやむにやまれぬ事情」はこちら
→厳しい昨今の教育現場、教師の生き方を提案します:「教師の課題を解決する、演劇教育コミュニケーション・メソッド」
→情報化時代の生き方を考えます。「知識の汚れを落とし、納得のいく人生を手に入れよう」
 
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