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生きているのではなく、生きていくことを学ぶ、それが愚放塾の演劇ワークショップ
2014/10/21 塾長ブログより
 
生きていくことは、刻々「いのち」を使い切っている
 
思想とは、概念ではなく、実践である。

使用に耐えうるような思想でなくては存在価値はない。いくら立派で正しいことを言っても、行動が伴わなければ信用されない、それと同じである。

私たちは生きていることで満足しているのではない。生きていくことで満足を得るのである。

愚放塾で毎日行われる演劇ワークショップは、実践のさまざまな使用に供することを目的としている。いわば、応用可能なエッセンスをゲーム形式で、塾生にやってもらっている。彼らは演劇ワークから、いろいろ気づき、自身の生き方に反映させようとしている。

演劇ワークショップを通して、未来へ向かって生きていこうとしているのである。

愚放塾舎のワークスペースは、まさしく命のたぎる場である。

命は名詞ではない。命を名指しても、私たちは命の在り処を指し示すことはできない。心臓でもなければ、身体でもない。60兆の細胞一つ一つにも命が宿り、毎日50億もの細胞が入れ替わっている。

命とは動詞である。モノではなく、コトである。命はたえず変化してたえず動いている。不確定な未来に向かってつねにすでに生きていく。夥しい数の細胞が毎日入れ替わっているからこそ刻々変化する状況に対応できるのである。

「自分を使い切る」からこそ、新たな状況に対応できるのだ。命に疲れがないように、自分を使い切ると不思議に疲れない。
 
情動と感情の違い
 
愚放塾の演劇ワークショップは、「自分を使い切る」ために感情ではなく、情動にフォーカスする。

森の中で熊に出会った時、一目散に逃げる。そして、逃げ切って安心してから怖いという思いが湧き上がる。

一目散逃げる原動力こそ「情動」の働きであり、身体のネルギーを惜しみなく使い切る。

まさしく生きていくことの典型的な例である。

逃げ切って安心して怖いという感情に打ち震えている。

まさしく生きていることの典型的な例である。

情動は感じる前に体が動き、「感情」は感じて浸るから体は動かない。

情動に命は宿っている。生きていくための働き、それが命である。

演劇ワークショップでも、あるいは朝の「ハンドライティング」でも、感じ考える前に動き書くことを求める。

なぜか。

そうすることによってしか、「いのち」に触れることはできないからである。

そうすることによってしか、生きていく働きを活性化することができないからである。
 
参考記事:
「愚放塾の演劇教育」
「手渡しでなければ受け取ってもらえないもの」
「悲しみに暮れて泣いている人は、安全な場所を確保している人である」
「生き方に迷っている若者へ贈る生きる知恵」
「滅びの力を利して生きること、それが自然の摂理である」
「生き方に迷っているあなたへ」
 
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