愚放塾をぶち壊す
2014/10/19 塾長ブログより

 
「自分を使い切る」とは、塾生から出た言葉
 
人間は自分が思っている以上に深い存在だ。自分が思っている以上に可能性に満ち溢れている。

2人の塾生と共同生活をして…もっとも一人は通い塾生で寝起きは共にしていないが、朝7:30からの浜辺の気功から夜の文章タイムが終わる10時ごろまで一緒にいる…彼らが包み隠さず話してくれる心模様を聴きながら、つくづくそう感じるのである。

先日「愚放塾とは何か」というテーマを出して、二人から実感やら感想、意見を聞き、話し合った結果、この日記でも紹介した通り、「愚放塾とは自分を出し切るところ」という結論に落ち着いた。塾生の言葉であったが、僕も腑に落ちた。

これがキーワードになって、演劇ワークでも彼らはひたむきに自分を出し切ることに向かった。自分と対峙し、いまの自分を精いっぱい、あるいはたとえ1ミリでも自分のリミッターを振り切ってやろうと、僕の指示にも、素直に真剣に取り組む。

決して頑張るのではない。自分のなかで休んでいるものを揺り動かし、目覚めさせて、心身的なものをさらけ出す。恥ずかしいことかもしれない。ダメな自分かもしれない。いままで抑圧していた感情かもしれない。

ともかく、自分のなかから湧き上がってきたものをストレートに表出する。
 
塾生が不穏当な思いを抱いていた
 
そんな一連の流れの中で、昨日、演劇ワークの後、標題の過激な「愚放塾をぶっ壊す」という心理的事件が起こった。

それは演劇ワークの後、昼食後に塾生がダイニングで一人自分の課題に取り組んでいたときに起こった。僕は、自分の部屋に籠って、奇しくも昨日のワークの感動に浸っていた。このブログに日記を書いていたときだ。

塾生が心に溜まったもやもやを晴らそうと愚放塾は破壊計画を練っていたというのだ。

後日、彼は正直にその時のことを話してくれたのだが、それを聞いて驚かないわけがない。僕はそれまで塾生はみな今の生活に満足してすべてに前向きに取り組んでくれているものばかりと思っていた。決して高を括っていたわけではないが、彼らの心の状態に問題はないと踏んでいたのである。

それがである。塾生が僕のあずかり知らないところで「愚放塾をぶち壊す」という過激な感情を抱いていたのでだからか驚いて当然である。
 
人間の心理は分からない!
 
昨日、あれだけすっきりしたといい、清々しい表情を浮かべていた同一人物がほんの1時間かそこらで全く別人のように、テロ的な感情を抱く。

しかも、彼は日ごろから愚放塾に来てよかったと言っている。僕にも感謝を気持ちを述べる。そうれあったのだから、なおさらである。

「憎い。バラバラにしてやる。細切れだ。わざと原型を残して、見るも無惨な姿に変えてやる。滅茶苦茶に、台無しに、二度と元に戻れないように、誰の目にもはっきりわかるぐらいにぶち壊してやる。人が寄りつかないほど、おぞましくしてやる。責任もとらない。そうしてから、二度と顔をみせるものか。」

こんな思いに駆られていたとは…。
 
心の自然治癒力
 
正直に言おう、実のところ、僕は少しも驚いてはいないのだ。僕はもともと人間がそんなに理性的に生きているとは思っていない。人間なんてこんなもの、と見限っている。いや、当たり前だとも思っている。むしろ、塾生が正直に書いてくれたことに感謝している。

僕はこう考えている。「これは自然治癒の一種なのではないか」と。

つまり、本人の治療的な意欲によって、自分を持て余すような厄介な状態になったのではないか。いままで思うに任せぬ人生を歩んできた彼。自分を押し殺し、押しつけられた方向へ無理矢理自分を進ませてきた。大学を休学し、悩んでいた彼。自分の人生は中学2年で止まっていると言った彼。愚放塾でやり直すことを決意した彼。

遅まきながら、無意識のうちに、思春期に自身を投げ込んで、やみくも反抗してみているのかもしれない。あるいは、不安が消えてぽっかり空いた穴にいままで抑えていた破壊衝動が入り込んだのかもしれない。

いずれにしても、彼の無意識の治療的な意欲が、いままで言いなりになって押し殺していた自分を救済しようとしている。その鬱積したものを、心の奥底から引きづり出して、思う存分にしゃべらせたのではないか。

押し殺されたままになっていたおぞましい感情が噴き出る。自分に対する嫌悪を投影させて、対象を壊したい衝動に駆られる。そう考えれば、よくあることではないか。
 
心を丸ごと受け止める
 
手におえない、錯乱して暴れる自分を手頃な相手、しかもそれは自分のことを思っている相手、ゆえにわがままを言える相手、そんな対象を見つけて壊そうとする。そのことで自分を救おうとする。むろん、心理的な暴挙である。

この手の衝動は思春期の若者には、よくあることではないか。

この衝動が不発に終わると、現実で処理しようとしてまかり間違えば犯罪につながる。心理的テロ行為をきっちり受け止めてあげるのが、僕の最大の役目でもある。ぶち壊す相手を引き受けることで、抑圧した感情を解放する。

それだけではない。もしかしたら渇愛感情を満たしてあげることになるのかもしれない。相手を血祭りにすることでしか収まらない感情を当人の僕が許しあげることで、はじめて塾生は自分を丸ごと消化して前に進むことができるのだ。

人間、この不可思議なもの、だから、人間が好きなのかもしれない。別段、きれいごとを言っているつもりはない。これは人間の当たり前である。
 
参考記事:塾生に関する記事は、以下の文章を参照してください
「『自分を使い切る』とは、どういうことか?」
「愚放塾で1年学んで」
「塾生の成長を目のあたりにして…」
「デタラメに強い人間がこれから生き残る」
 
僕自身が丸ごと受け入れらて立ち直った経験は、こちらをお読みください。
塾長インタビュー「人前で演じるなんてとてもできない性格でも大丈夫ですか?」(Q5)
 
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