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自画像は本当に自分で描いたものなのか?
2014/10/14 塾長ブログより
 
「自画像」とは何か?
 
自画像を各自が胸に秘めている。

その自画像が邪魔して思い通り行動できなかったり、自分を見限ってしまったり、活かし方が見つからなかったり、稀にその自画像のおかげで助けられる場合もあると思うが・・・各自が胸に宿す自画像にはそれぞれ功罪がある。

ところで、その自画像は誰が描いたものだろうか?

自画像というからには字義通り、自分を自分で描くはずのものだが、おそらくだいたいは、他人が描いたものだろう。

いつの間にか知らないうちに心のうち自画像が描かれていて、大人になった時には、早い人はすでにもの心ついた時に、それを自分だと思い込んでいる、それが普通だろう。

自画像は、いままでの人生の中で接してきた多くの人たちの共同制作、なかでも自分に大きな影響を与えた人たちが絵筆の付け根を握って描かれたもの。

自画像とは、他人の目を通して自分を見ていることにほかならない。
 
自分の目で自分を見てみよう!
 
愚放塾では、自画像を描き変える。自分のなかから新たな素材を探して自画像を描くのだ。

とはいえ、自画像を描きかえる作業はそう簡単ではない。他人を通していつも自分を見ていると、自分を見る目が節穴になっているからだ。

自分のなかを隅々探しても、あるものはガラクタばかり。ゴミ同然の素材しか目に入らない。しかし、それを見ている目が他人から借りてきた目であるとしたら、どうだろう。他人の冷たい視線で自分自身を見ていたとしたら、どうであろう。

はっとするだろうか。それとも、何も感じないだろうか。まあ、どちらでもいい。

それよりも、自分のなかのガラクタを自分自身の目で改めて「愛」をもって眺めてみようじゃあないか。

きっと長い間、打ち捨てられてうず高く積もったガラクタの一つ一つに思い出が貼りついている。

たしかに悲しい思い出、惨めな思い出、恥ずかしい思い出、悔しい思い出、思い出すのも嫌な思い出、思い出すことすらできない思い出、きっときっとネガティブなものばかりがでてくるかもしれない。しかし、それはまだ他人の目で自分を見ている癖から抜け出せてない証拠、まず、そのことにまず気づこう。
 
自分の色で自画像を描く
 
では今度は、親がわが子を見守るように自分自身の中のガラクタに愛情を注いでみよう。

愚かな自分でもいい、情けない自分でもいい、思わず笑みがこぼれるような生き生きしてた自分が蘇ってこないだろうか。

ネガティブな印象ががらりと変わって、自分のなかの一つ一つのガラクタが愛おしくなってきやしないか。

その愛おしいガラクタこそ、自分にとっては貴重な宝物なのだ。

そのことに気づいてほしい。

ともあれ、そのガラクタを絵具にして、真っ白なキャンパスに自画像を描く。

いままでとは違った色遣いで、タッチで描けていることに気づくだろう。その調子だ、鼻歌でも歌いながら、なりたい自分を描いてみよう。

楽しくなってきた!!!

道端に転がっていても誰も目もくれなかったガラクタたちが、面白いようにキャンパスで弾けている。これこそ誰にもまねできない自分だけの描き方、本当になりたい自分がそこに踊っている。

自分自身の根っことつながった!

本当の自画像は、自分のなかの自分の色でしか描かれない。そのことを気づいてもらうのが、愚放塾の教育。
 
参考記事:
「ありのままの自分論(1)」
「生き方に迷っているあなたへ」
 
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