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大学不登校・休学生のための愚放塾版「いのち」の授業
2014/8/5 塾長ブログより
 
孔子に盾つく
 
論語という書物の冒頭には、学び方の教えが載っている。

「学んで時に之を習う」

この有名な章句の訳は、普通、高校では以下のように教わる。

「先生に教えてもらったことを時折り復習して自分のものにすること」

身長九尺六寸(216センチ)の孔子大先生に盾つくわけではないが、真の学びとは、先生に教えてもらった通りすることではない。申し訳ないが、愚放塾の教育は孔子先生の教え方とは違うのである。
 
新解釈はこうだ!
 
もっとも、この訳し方に異を唱える者がいないわけではない。

「身体感覚で論語を読み直す」のなかで著者の安田登は次のように述べている。

その説を要約すると、次のようになる。

「学」という漢字は、和語のまねぶを当てはめたように、先生の教えてくれたことを真似するという意味。孔子先生の教えを忠実に実行する、それが「学」である。孔子先生、相当厳しかったそうな。

つぎに「而」、これは高校では、接続を表す置き字としてスルーするのが普通だが、安田氏はこの語に重要な意味を読み取る。「そして」ぐらいにしか訳さないこの語に対して、何かが変容するための時間の経過を読み込む。トランスフォーメーションとしての時間がこの語には含まれているというのだ。

先生に教わったことを忠実に守って努力する。1つのことに熱狂する時間がそこにあり、その時間の中で自分が変わっていく。「而」には、そんな意味があるという。

それから「時」は、「時折り」とかいうぬるい意味ではなく、「まさにその時」、待ったなしの瞬間のことであるという。

そして「習」は、象形的は雛鳥が羽をバタバタさせて、飛び立つさまを表している。このあたりは高校で習ったことと同じである。

したがって、「学びて之を習う」の安田訳は、先生の教えを忠実に学びながら、長い熱狂の時間を体験し、まさに変容するその瞬間を逃さず、一気に飛翔する。

これが安田氏のこの章句の新訳である。
 
共に学び、共に変わる
 
だが、安田氏のこの訳にしても、やはり上から目線だよね。頭ごなしに私の言うとおりにしなさいって感じはする。

愚放塾の考える教師は「私の言うようにやれ」と命じる教師ではない。「私とともにやろう」と誘う者である。

私のいうようにやれというのは、座学である。先生が教壇に立って黒板であれこれ教える、これには行動が伴わない。例え、体育であっても、先生が中心にいて、生徒は先生の教えるままに真似するのであれば、座学に等しい。

真の学びは、教師と生徒、一緒に行動し、それぞれが一緒に変容していくのである。

たとえば、昆虫のバッタ。

一匹一匹がばらばらでいるときは、緑色をした、ふつう私たちの目にするバッタであるが、それが、リズムを共有し、集団化した時、変容を遂げる。体の色は茶色っぽくなり、羽も伸び、凶暴な集団を形成し、貪欲に稲穂を食い尽くして回る。

これはあまりよくない例だが、バッタが集団化するときそこには必ずリズムの同期がある。

これを「いのち」のリズムと名付けよう。

この「いのち」のリズムが同期したとき、構成員そのものが大きな変容と遂げるのである。デモ隊のおいても、普段おとなしい性格のものがまるで別人かと思われるほど、獰猛な性格に変貌するのもよくある話。

これもたとえとしてはよくない。たとえが悪いからといって、ここで誤解してほしくないこと!

それは、愚放塾が、集団心理を利用した教育しようとしていると短絡的にとらえてほしくないということである。
 
「いのち」の営みから学ぶ教育
 
愚放塾は、「いのち」のリズムを使って教育する。

「私と一緒にしよう」という教師に生徒が共鳴し、場にリズムが生まれ、そのうちに同期する。シンクロした場には「いのち」のリズムが宿り、それぞれの生徒が個性を発現して、自分自身の人生のかけがえのない役割を発見する。

あたかも受精卵から細胞分裂を繰り返してきた細胞同士がお互いのリズミックな活動によって。それぞれの個性を生かして体内の臓器に分化していくようなものであろう。

愚放塾において、教師は、決して偉ぶらない。たえず言葉をかけて語り合い場を整え、ともに行動しながらリズムの同期を促す、生ける触媒のような存在かもしれない。
 
参考記事:
「滅びの力を利して生きること、それが自然の摂理である」
土はすべてを「ゆるす」
「命の重さは何グラム?」
「『いのち』とは波である?!」
 
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