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演劇教育の基本は自己イメージの衣を脱がせること
2015/8/2 塾長ブログ
 
社会的な生命の危険信号
 
目もくらむようなつり橋を渡るとき、気の小さい僕は足がすくんで動けなくなる。ガタガタ震えている。ほんの少し揺れただけでも思わすその場にへたり込み、つり橋の頼りない手すりにしがみつく。その手もガタガタ震えている。

同じようなことが舞台でも起こる。肝っ玉の小さい僕は衆目にさらされ、その視線の束に射すくめられてやはり足がガタガタ震える。つり橋と違ってこちらは命の危険ではない。舞台から転がり落ちたところで大したことはない。

では、何の危険があるというのか。

ガタガタ震えるのは、自己イメージが崩壊しないやないか、その危険信号である。自らの社会的な生命の危険を知らせているのである。
 
自己イメージとは社会的生産物
 
そもそも自己イメージとは何か。

端的に言えば、自他関係の結節点で成立するのが自己イメージである。

説明しよう。

いくら自分勝手に自己イメージを抱いてそのようにふるまっても、みんながそれを承認してくれなければ、その自己イメージは日の目を見ることはない。社会的な存在とならないのだ。

僕にも経験があるが、好きな劇画にあこがれ、その主人公のようにふるまったとしても、それが板についていなければ、「お前、カッコつけて何している?」って感じで見られ、嘲笑され傷つくだけ。

なりたいと思っても勝手になれるものではない。みんなに認められないかぎり、自己イメージを所有することはできない。それが自己イメージの本質だ。
 
それでも、独りよがりの自己イメージは生き延びる
 
空気の読めないような鈍感な男の子がいて、自分がイケていると思い込んでいい気になっていても、現実問題として恋した女の子にフラれ続けたら、そのKYくんでもいずれ身の程を知ることになる。自己イメージの変更を余儀なくされるのである。

小さいうちから、このような他者の承認の試練を受け続け、成長するにつれ自己イメージは次第に客観性を持つようになってくる。

しかし、そこは人情である。どこからか偽ブランドを密輸入しては、巧みに自分に都合のよい自己イメージを拵える。だから、自己イメージは主観的な色彩をいつも帯びている。自己イメージが独り歩きしているのに気が付かない。

少しでもひとによく思われたくて自分の欠点や恥ずかしいところはひた隠し、イミテーションゴールドを着飾って、「そうはいっても、それほどわるくはない」と、手軽な方法でその場しのぎの自己イメージを創り上げているのではないだろうか。

本当の自分は観ないようにしているから、毎日が楽しく過ごせる。自分に対しては誰しも甘い。他人対しては凝視しても、自分に対しては、片方の目で薄目を開けてしか見ないものだ。
 
人前は自己イメージの試金石
 
安手の自己イメージでいつも自分をごまかしているものだから、舞台に立った時、ガタガタ震えるのだ。もしへまを仕出かしてみんなから笑われたら、いままで築き上げた砂上の楼閣=自己イメージがもろくも崩れてしまう。

こう思われたいと、自分の心に嘘をつき、みんなの目をごまかし、平然と過ごしている人ほど、舞台に立つとあがる。ガタガタ震える。些細なことでも、決して表に出せない恥ずかしい自分が顔を出さないか、心配でたまらず極度に怯える。

いまの若者は、自分を隠し、キャラを演じ、そのキャラで人間関係をうまく処理している器用な者も多いと聞く。でも、ある局面に立つと、そのキャラのメッキはすぐ剥げるのではないだろうか。

とはいえ、「な~んちゃって!」と笑って済ませるならば、彼(女)は根っからの俳優である。

不器用な青年期を送ってきた僕もそんな風に生きれたらさぞかし楽しかっただろうなと思わずにいられない。

僕は涙ぐましい努力をしてやっと拵えた自己イメージがある局面で、たとえば公衆の面前などでもろくも崩れ去って、それ以後、全く自信を無くしたことがたびたびあった。

人目ばかりが気になって、学校を休んだり、家からいっ歩も出らないなんてことをちょくちょく経験した。

自分がかりそめにも信じていた自己イメージが崩壊したら、もはや生きてはいけないのだ。若いときは自己イメージの崩壊の歴史と言ってもいい。そのたびに敗れたところをつくろって曲がりなりにも自分を納得してまたもやごまかしごまかし生きていた。自己イメージを持たないと生きていけないことも痛いほどわかった。
 
愚放塾の自己イメージ教育
 
愚放塾では、その逆を行く。

かりそめの自己イメージを脱いで、まずは裸になる。裸の自分をよく見て、気心の知れたみんなから承認してもらって、素の自分を肯定することから始めるのだ。

次は、裸の自分に聞いてみる。裸のお前が好きなものは何か?と。

社会的な虚飾を取り払って、好き放題してみる。裸の体が進む方向へ行ってみる。何度もしてもやりたいことを探してみる。嘘偽りのない、裸の心が志すものを素直に受け入れて、みんなにも提示してみよう。

それがたとえ反道徳的なものであっても、みんなが、そして、自分が肯定する限り、それは悪でない。むしろ、新たなものを生み出すエネルギーになるはずだ。

自分の好きに妥協しないことである。ひとが何と言っても自分の根っから好きなものは押し通す。自分を信じる。

どうでもいいことはみんなに従い、重大なことはみんなで考え、自分が好きなこと自分の心を絶対信じる。

自分の心に嘘をつかず、それが世の中のあたりまえから外れていようと、自分の好きなことに専心し、とことん磨く。

好きなことに熱狂することが裸の自分をたくましくしていく。

ここで注意すべきは、本当に裸にならないかぎり、熱狂はやってこない、ということ。そうしているうちに、ひとが勝手に自分に合った衣=イメージを着せてくれる。

それを自分のイメージにすればいい。人からどう思われようと知ったことではないと思えるようになったら、まずは合格。

自己イメージなんて、所詮、お仕着せの着衣である。気にすることはない。
 
参考記事:
「復学・復帰を目指す大学休学生・大学不登校生のための「自己イメージ学」講座」
「復学・復帰を目指す大学休学生・大学不登校生に贈る「続自己イメージ学」講座」
「『自己変容』とは、自己イメージを変えることにほかならない」
「『プリコラージュ』演劇教育法」

 
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