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人生は何度でも新しくなる。
2015/1/31 塾長ブログより
 
世慣れしないことに可能性を見る
 
「宴たけなわではありますが、このあたりでひとまず中締めとさせていただきます」

この言葉、意味通りに受け取ると、これは途中退席者のためのとりあえずの挨拶であって、宴の終わりには本締めがあることになる。

そう思って飲んでいたら、みんな帰ってしまい、気がついたら誰もいなかった・・・まさかそんな人はいないと思うが、いたとしたら世間知らずの愚か者である。

世間知らずの愚か者とはやや言い過ぎた。

が、中断と見せかけて終結を意味する常套句、日本語にはよくある語用で、字義通りに受け取ってしまった若者の、「しまった!」という困惑顔が目に浮かぶ。

僕はそんな世慣れしていない若者に可能性を見る。

だから、愚放塾はそんな若者たちが集う居場所にしたいと思い、立ち上げたのである。
 
世間知らずの強みを生かせ
 
世間知らずの困惑こそ、可能性の条件である。世間知らずを一転、困惑ではなく、知らないことの強みに変えるのが愚放塾。

「青年は荒野を目指す」

これは五木寛之の小説である。

青年は潜在的にはエネルギーに満ち溢れているものだ。

その本質は、無鉄砲。

もとよりこれは当て字で正しくは「無点法」と書く。訓点ない漢文の意味で「デタラメ」に読むというのが原義だが、「無鉄砲」の、丸腰でどこへでもすっ飛んでいく、その感じ(漢字)が「青年」にはぴったりはまる。

しかし、いくらエネルギーがあり余っていても、そう無鉄砲になれるものではない。無鉄砲になれるのも、経験に乏しく怖いもの知らず、荒野の厳しさを知らないからこその仕業である。

知らないからこそ挑戦できる。身の程を知らぬ若者こそ可能性に満ちている。

とはいえ、経験がないからこそ「これでお終い」とあきらめてしまうのも若さの特権である。
 
万事休すから、未来が始まる
 
愚放塾は未熟さのゆえに未知のことに挑戦し、未熟さを自覚するゆえに何度でもやり直す。

身の危険はないが、何度も「お終いだ!」と思ったところから、幾度となく立ち直る経験をする場所、それが愚放塾である。

「 人生は何度でも新しくなる。 青春は、その人の気持ちの持ちようで、何回でも訪れてくれるんだよ。」

そういえば、これは「青年は荒野を目指す」のなかで、プロフェッサーと呼ばれる老人の言葉であった。
 
参考記事:
「ニート進化論」
「固い頭から自由になって、感覚を解放しよう」
「若いうちに承知しておかなければいけないこと」
「使命は、向こうからやってくる」
 
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