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デヴィッド・ルヴォーの思い出(3)
2014/5/24 塾長ブログより
 
浮かれた悪夢
 
固まっている。疲労物質が溜まっている。今朝目覚めた時、僕の脳みそは機能不全だった。僕はぼんやり夢を思い出していた。

試験を受けていた。難問だった。国語と数学の問題を一緒に解いていた。国語は解けたが、数学が全く分からない。難しいどころの話ではない。問題文の意味が分からないのだ。格闘した。夢の僕は何とか問題を解こうと必死だった。

それにつけても、奇妙な試験会場だった。試験官と思しき人物が問題用紙を配って試験が始まったのだが、あたりは一向に静かにならない。もちろん真剣に解いている者もいるが、多くは自由に立ち歩いて話をしている。カンニングのようなことも平気で行なわれている。試験を投げ出してコーヒーを飲んでいる。派手な服を着て人たちが隅っこでだべっている。僕は部屋を変えた。隣の部屋は小屋のようなところだった。粗末な机の上に問題用紙を広げると、今度は白人がぞろぞろやってくる。喧噪のなか、僕は白紙の答案とにらめっこしている。

デヴィッド・ルヴォーの「若手演出家のためのワークショップ」は、当時セゾン財団の助成金で運用されていたので、僕の支払った費用はゼロ。すでに世界に名を馳せていたデヴィッドのギャラはもちろんだが、そうそうたる俳優たちを集めるだけでも相当な額のお金がかかったに違いない。降って湧いたような幸運に僕が狐につままれたような気がしていたのは事実だ。
 
現実が夢を真似する
 
夢と酷似した状況はワークショップの初日に訪れた。

僕をはじめとする参加演出家が前に出され自己紹介する。それから、衆目のなか、僕たちだけが輪になってデヴィッドのお題にひとりひとり答える。

そのときだった!

使われるテキストはスウェーデンの作家ストリンドベリの「債鬼」。難解なテキストだった。とにかくひとつひとつのセリフが長い。日本の戯曲では考えられない。田中千禾夫や清水邦夫など戦後作家の戯曲には時々長台詞が出てくるが、現代作家、たとえば野田秀樹や平田オリザの戯曲を読むとほとんど一行セリフで話がすすんでいく。

ストリンドベリにかぎらず、外国の戯曲は台詞が長いのだが、このテキストには翻弄された。ほとんど説明ぜりふがない。そのうえ、心理的な仕掛けが隠されている。劇中世界に働くパワーゲーム、この見えないルールを解き明かす鍵を探すのに苦労した。

「債鬼」の登場人物は3人、男2女1の三角関係の物語。一人の美しい女性を巡って、彫刻家を志す若い男が老練な男の巧みな術策にはまり、自壊していくという悲劇が描かれている。僕の書棚を探せばどこかにある。入念に書き込まれて真っ黒になったページの一枚一枚が甘酸っぱい思い出を宿して眠っているはずだ。
 
ひとり空回りしている自分がいた
 
当時の僕は演劇を20年近くやって脂の乗った年頃、数多くの戯曲を読み込んできた。演出家としての自負心も手伝って、戯曲の読みにはゼッタイの自信を持っていた。難解なテキスト、なにするものぞとばかり、ねじり鉢巻きで読み解いた。自信満々でワークショップに臨んだ。しかしながら、その意気込みも空回り、初日のデヴィッドのお題に肩透かしをもらった僕の頭は真っ白になった。

まさに今朝の夢の状況と同じ。僕はお題の意味も分からず、まさに白紙の答案とにらめっこ状態になった。まるで現実が夢を真似したようだった。
 
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