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デヴィッド・ルヴォーの思い出(4)
2014/5/25 塾長ブログより
 
いま、ここで起こっていること
 
……デヴィッドは、僕たちに戯曲の印象を聞く。そのお題そのものは何のことはない。6人の演出家がそれぞれに感想めいたことを述べればいいだけのことだ。僕の番に回ってきた。僕は少しばかり気負っていた。難解な戯曲の解釈を始めてしまった。

僕の解釈を聞き終わってデビッドは
「素晴らしい」
と、大きな身振りを交えて言った。
「But…」
すこしの間。僕の方をじっと見ている。そしておもむろに語りだした。
「それは解釈だ。僕が聞いているのは戯曲の解釈ではない。いま、ここで起こっていることを聞いている……」
僕はその意味するところがまったく分からなかった。昨晩の夢のように。

「いまここで起こっていることとはなんだ?戯曲の印象を質問したのだろう、いまここで起こっていることじゃあない!印象とは、戯曲を読んだときに感じたことを述べることなのではないのか。解釈だって同じようなものではないか。」

心の中で自問自答している間も、デビットは話し続けている。

「……演出家のアイデアを形にするのではない……稽古は瞬間を分かち合うこと……演劇とは観客だけが見ることのできる舞台という密室で起こる祭りだ……」
デヴィッドは大きな目で僕を見つめながら通訳が困るほど饒舌にしゃべり続けた。僕は通訳の口から発せられるその言葉がさっぱり理解できなかった。
頭が真っ白になった僕は、その後一言もしゃべることなく、初日のワークショップが終わった。

ディビットの「いまここで起こっていること」という言葉はむろん覚えてはいた。が、実はそれほど気になっていたわけではない。その意味するところが明らかになるのは、4日目のワークショップまで待たなければならなかった。
 
「いのち」がうごめいた
 
ワークショップ3日目、いよいよシーンスタディーが始まった。シーンスタディーとは、演出家の演出したシーンを検討、研究するワーク。

つまり、まず6人の演出家にシーンが割り当てられる。つぎに演出家がそれぞれに好みの俳優を指名しキャスティングをする。希望する俳優が重なった場合は話し合いで解決する。キャスティングが無事終わると、さっそく演出家が中心となって二人の男優と一人の女優と一緒にシーン作りに入る。もちろん、時間制限はある。最後にそれぞれのシーンが演じられ、デヴィッドが中心となって、あらゆる角度からそのシーンの検証を試み、掘り下げ、その可能性を探るというものだ。

僕はまず読み合わせをして俳優に台詞の意味を問いながら、演出の解釈を示し、半立ち稽古、それから立ち稽古、返し稽古に通し稽古。僕はきわめてオーソドックスなやり方を選んだ。我ながらまずまず出来栄えとその時は感じていた。

しかし、翌日の発表ではさんざんだった!

発表が終わる。ディビッドの質問が飛んでくる。また同じ質問だった。
「今ここで起こっていることは何か?」
「えっ!?」
僕はまたもや答えられない。

すると、デヴィッドは矛先を変えて俳優に聞く。俳優は答える。僕が答えられない質問に俳優たちはみな答えられるのだ。デヴィッドは僕を見る。にやりと笑ったかに見えた。実際にやりと笑った。そして、こう言い放った。

「あなたは、何も見てない。いまここで起きていることを!台本ばかりに目を落としている」

まさしくその通りだった。僕は一刀両断に切り裂かれた。僕は自己の解釈にこだわって、俳優の動きを全く見ていなかった。

俳優の動きとは、表面的な動きなどではない。俳優の内面の動きのことだ!それは「いのちのうごめき」と言ってもいい。

内面から発せられる「いのちのうごめき」を的確に捉えたデヴィッドの質問に、俳優は水を得た魚のごとくにしゃべりだす。体の中のうごめきが言葉となって想像力が刺激されたのかのように……

デヴィッドのリクエストで同じシーンが繰り返されると、彼らの動きは見違える生き生きとして輝き出した。

僕は夏の熱いアスファルトに溶けたガムを思わず踏んじまったような気持ちに包まれていた。敗北感に包まれながらも、僕はデヴィッドが初日に言った意味をようやく理解していた。
 
瞬間を分かち合う
 
演技とは生命(いのち)の燃えたぎる営み。「いのち」には「いま」しかない。過去も未来もないのだ。

初日のワークショップで使われた「印象」とは、英語でimpressionと綴る。その動詞形は、外から内側に押し出すという意味である。漢字の意味もそうだ。正確に訳されている。ただし、通常はそこまで考えて使っていないだけ。

そっか、腑に落ちた!

いまここで起こっていることに心が動くこと。つまり、それは過去の解釈ではなく、未来の予測でもない。いまここで起こっていることに反応すること、つまり、瞬間を分かち合うことなのだ。

ちなみに、表現は英語ではexpression。内にあるものを外へ押し出すこと。そう、表現はimpressで触発された反応を洗練された形にすること。

俳優の体の中でうごめいている動きが次第に形となって整えられていく、その営みを助けるのが演出の仕事にほかならないのだ。

このワークショップによって、僕は演出の役割に初めて目を開かされた。そして、自ら気づき、新たなものを見出すというワークショップの本質に触れられた体験、その意味合いにおいても、デヴィッド・ルヴォーのことは忘れらない。
 
デヴィッド・ルヴォーの思い出(3)
 
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「演劇で思い出に残っていることは何ですか?(Q13)
「演劇とはなんだと思いますか?」(Q14)
「愚放塾の演劇教育は肥やしでしかない~僕の演劇史も踏まえて~」
「自己プレゼン演技術その1」
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