大学休学、不登校のみなさん、いまの自分を信じられますか?

「自分を信じること」は難しいですね。世の中で本当に自分を信じられる人が、どのくらいいるのでしょうか?

「どうせ自分など信じられないのだから、いっそのこと他人を信じた方がいい」といった意見もあります。その理由は自分を信じようとすると、どうしても根拠は学歴や経験や過去の自分になってしまいます。

信じられない自分を信じて行動するより、信じられる他人を信じて任せた方が、事のうまく運ぶことが多いからだそうです。

なるほど一理ありますね。

今回は、みなさんと「自分を信じること」について考えていきましょう。

「自分を信じる」と「自信」は似て非なる言葉?!

「自分を信じる」を、約めると「自信」になります。しかし、「自分の信じること」と「自信」とは同じでしょうか?

「自信を持つことが大切!」と説く人は世の中にたくさんいます。

ところで、自信は過去の経験の裏付けがあってはじめて得られるものですよね。輝かしい過去の実績は、成功体験として自信をもたらしてくれます。

自信を持つことをあまり強調しすぎると、過去に実績がない人はどうすればいいのでしょうか?

「だから、小さな成功体験を積み重ねて実績を作り、自信を得ればいいじゃないか」と言われるかもしれません。

しかし、僕の考えは少し違います。「自信」を否定はしませんが、僕は「自分を信じること」に重きを置きます。

「自分を信じる」とは、自信のない自分でも信じられることだと思っているからです。

素人剣士が剣豪に勝ったという話

日本の伝統芸能のひとつに「講談」があります。みなさんは知らいないでしょうね。

落語が会話芸であれば、講談は独り話芸です。扇子で机を叩いては調子を取って軍記物や剣豪物などを面白おかしく話します。

聴衆はつい本当の話のように聞き入ってしまうものですから、「講談師、見てきたような嘘をつき」なんて言われました。小さい頃はよくテレビでやっていたものでしたが、最近はすっかり姿を消しましたね。

「自分を信じること」の例として、「講談」に出てくる話を紹介します。

剣術の試合。

一方は腕に覚えのある剣客と他方はまったくの素人剣士、その果し合い。その結末はいかに?見るも無残な顛末となるかと思いきや、パパンパンパン。

ずぶの素人剣士は、もとより全身スキだらけ。もっとも勝ち目がないので、はじめから負ける覚悟で臨んでいる。へっぴり腰で構えもない。ところが、剣に心得のある武士の方に迷いが生じた。なんとも情けなし。この素人の剣に相対し、どうしても打ち込めない。

ついに剣豪の方が、「参った」と叫んでしまったのでありましたあ~、パパンバンバン!


この話を、どう思われますか?

「自分を信じる」とは、この素人剣士のような態度のことを言うのではないのでしょうか?

裸の覚悟が一番強い!

素人剣士は、破れかぶれで立っている?!そうではありません。はじめから負ける覚悟で何の構えもしません。百戦錬磨の剣豪の目からすれば、これは恐ろしい構えに映ります。構えがないということは、相手の出方が読めませんからね。

素人剣士はただ突っ立っているだけですが、剣豪はそうは読み取れないのです。下手に打ち込めば、自らスキをつくってしまうと考えて、「参った」と叫んでしまったのです。

出来過ぎた話?そりゃ、そうでしょう。「講談師、見てきたような嘘をつき」ですからね。

しかし、僕はこの話のなかに大切なエッセンスが隠されているように思えるのです。

ひたすら防御して防衛することは、動きを鈍くします。厚い殻をまとっている貝はたやすく獲ることができますよね。

それと同じことが、この話にも言えないでしょうか?

自己防衛にばかりに気をとられていては、俊敏に動くことができません。それに対して、構えを外して何の警戒心も持たない人は、周囲の変化に敏捷に反応できます。

素人の裸の覚悟とは裏腹に、剣の達人はその敏捷さを覚って「参った」と言ったのです。

素人剣士の話から私たちが学ぶことは、なんでしょう?

自己防衛でガチガチになり、周りの目や評価ばかりに気を取られていると、逆に周りが見えません。警戒心で心が固く閉ざされてしまうからです。

警戒心を解いて心を開いて周りと向き合う、そこから、はじめて見えてくることがありますよね。

それはなんでしょうか?

自分を信じること!

日々、よりよい自分になっていくには、自分を偽らない。自己成長するためには、いつも自分に正直であり、周囲に惑わされたりしないことではないでしょうか?

なぜ自分はここにいるのか、自分はどこへ進もうとしているのか?

その答えは、自分を信じる以外に出てこないことはお分かりでしょう。

勝っても負けても、自分は自分、そう思えることが自分を信じることでしょう。

誰かに否定されても、能力不足を感じても、自分を偽ったりはしないこと、自分が決めた目標に向かって脇目も振らずに進んでいく、それが自分を信じることではないでしょうか?

周囲に気を取られるのではなく、周囲に気を向けて、何のとらわれもなく周囲を見渡せることが、自分を信じていることの証拠になるでしょう。

自分を信じることは、たしかに自信につながりますが、自信とは違います。

自分を信じるとは、たとえ無一物の自分であっても、自分を信じられる覚悟があることです。

その丸裸の心構えは愚かさの自覚にも通じ、自分が愚かだと思えれば、怖いものはありません。どんな状況であろうと、お体裁など気にせずに、積極的に良い方へ変える「変換対処」能力を養います。

自信は、ときに過信や傲りにつながります。過去の実績に裏付けられた自信は、その意味では未知の出来事には無力です。

そうです、自信ではありません。自分を信じる力が、激動の時代には力を発揮するのです。

復学・復帰を目指す大学休学、不登校の方へ

愚放塾のルールは心に嘘をつかない、それだけ。

そのルールには、あるがままの自分を大切にし、自分を信じるという意味が込められています。

好きなものは好き、したいことはしたい、嫌なものは嫌、そのひとりの本音をみんなが支えます。そうして、互いが互いの「自分を信じる心」を支えます。

たしかに、心から嘘をつかないようになるのは難しいと思います。なかなか言い出せなかったり、いつの間にか自己欺瞞に陥っていたり、あるいは無自覚に嘘をついていたり…と。

それでも嘘をつかないルールを守ろうとするだけで、裸の心を尊重し合えます。互いに相手を尊重する気持ちが芽生えてきます。自分を信じる心が確かに感じられます。

自分を信じるためには、お互いに認め支え合う仲間も必要なのですね。

みなさんはどう思われますか?

ご意見・ご感想をお寄せください。

お名前 (必須)

メールアドレス (必須)

メッセージ本文




参考記事:
「塾長インタビュー(Q17)なぜ愚放塾を創ろうと思ったのですか?」
「『死の経験』を潜ること、それは真の生き方を学ぶこと!」
「生き方に迷っているあなたへ」