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僕が教師になったやむにやまれぬ事情
2015/9/18 塾長ブログ
 
教師だけはなりたくなかった!
 
…一言で言ってしまえば、『弾み』かな。『弾み』というと、軽々しく聞こえる。しかし、けっこう苦しくて辛い『弾み』だった。いきなりドーンと強く突かれて、その反動で一気に撥ね飛んだような大きな衝撃の『弾み』…

もうずいぶん昔のことである。

あのころの僕は、就職活動や準備にあくせくしている友達や心配する家族を尻目にかけて、どこ吹く風の極楽トンボ…でもなかった。間違って入ってしまった教育学部。卒業したところで、教師としてやっていく自信は全くなかった。とにかく、人前に出るのが恐ろしいほどのあがり症。そのうえ、人付き合いが苦手。生徒を指導することなど、夢のまた夢、想像すらできない。

大学を卒業しても就職しない。日本中をバイトでもしながら気ままに旅して、その土地々々の空気や人情に触れ、もし気に入った場所があれば、そこに住み着いてしばらく働くのもいいかな・・なんてことを考えていた。といえば、多少なりとも聞こえはいいが、目の前に迫った現実からの敵前逃亡にすぎなかった。
 
あまりにも辛い、あまりにも悲しい試練
 

そんな僕に神様はとてつもなく熱いお灸をすえた。風船のように漂って何の当てもなく生きていた僕のもとへ、突如大きな試練が舞い込んだのだ。

母の病気である。そのとき母は末期のがんに冒され、すでに余命3ヶ月の体になっていた。当時はまだ本人に告知するという習慣がなかったので、母には内緒でその宣告は身内のものだけに知らされた。父をはじめとして家族はいきなり暗い穴倉に放り込まれたよう重く沈んだ。

とりわけ僕の動揺ときたらなかった。近い将来、母親のいない日々が訪れることなんて考えられなかった。母を精神的に頼っていた僕は、もとより母なしに生きてはいけなかった。毎日が悲しみで曇り、おろおろするだけで何も手につかず、まさに目の前の世界がその根底からガラガラと崩れていくようであった。

しかし、僕が深い沼底から抜け出すのにそう時間はかからなかった。いや、正確にいうと、そうではない。時間をかけられなかったのだ。母の病状を考えると、いつまでも落ち込んでいる猶予などなかった。僕はよろけながらも、むりやり飛び出していった。僕は決心したのだ。成り行きまかせの道を歩んできた僕にとって、生涯ではじめての決断だったかもしれない。

その日から僕は教師になるため、先のことなど考えないようにして、やみくも勉強した。まだ間に合う教員採用試験に受かること、それは僕の行く末を案じていた母に対するせめてもの親孝行だった。いままで苦労かけっぱなしの僕の罪滅ぼしなのだ、そんな熱い思いが体の奥底から力強く湧き上がってきたからであった。

そんな訳で僕は教師になった。
 
いまから思えば、とんでもなく悲しい母のプレゼントだった!
 
たしかに僕は教師になりたくてなった訳ではない。たしかに『弾み』であったかもしれない。しかし、人生には何ものにも代え難い貴重な時間がある。死に逝く母のために費やした時間は僕に教師という道を開いた。そう、僕は母の死の代償として教師になったのだ。

幸い母はそれから二年ほど生きた。

最後の別れの日、僕の教師になった姿を見届けて安らかに眠る母を前に、教師としてのいまの自分を恥じながらも、必ず立派な教師になってみせることを誓ったのである。
 
参考記事:
→ある教師との出会いがその後を決める「教育は綱渡り、教師は魔術師である」
→教師の一言が生徒の人生に大きな影響を与える「生きることは楽しいと言い切るゆとりのある人間が我々の中に何人いるだろう」
→支援高校で得た貴重な学び聞く、待つ、引き出す(1)
→些細なことを軽視して学級崩壊を経験:「教師の皆さん、些細なことを大切に!」
→荒くれ生徒たちと不登校生の共通点とは?:「期待しないで見守ること、その信頼がバネになる」
→ダメ教師奮闘記「塾長インタビューQ13:先生をしていた時に、なにか思い出があったら教えて下さい」

 
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