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みんなが好きなことを好きなだけやっても、機能するのが愚放塾である
2015/11/21塾長ブログ
 
「好き」からはじめる
 
ひとつの思考実験である。

読み始めたら、最後までお付き合い願いたい。結末は、誰もが納得することをお約束する。

さて、はじめよう。

自由に好きなだけをやる。みんなが自由に好きなことだけをする。ただし、共同生活することが条件である。

自分の好きを貫き通し、そうして愚放塾の生活は始まる。

もちろん、その生活は口で言うほど容易くない。それどころか、共同生活はすぐに破たんするだろう。塾生が「好き」を好き放題と勘違いするからである。
 
何度生まれ変わっても好きか?
 
そこで、今度はその好きが本物かどうかを検証する。

塾生は課題を与えられる。

「おまえの好きなことは何度生まれ変わったとしても、変わることなく好きなことか?」という問いを投げ掛けられる。

今やっていることは、何度生まれ変わっても決して飽きることなく、やり続けられるほど好きなことなのかを問われるのである。

塾生は考えさせられる。思考実験を課せられるのだ。

そのとき、彼らは壮大な世界に身を置いている。もちろん、想像の中で。

善い事でも悪い事でも、やりたいことはすべてやりつくした中から、決して飽きることなく、やり続けられる好きなことを見つける。並大抵のことではない。想像の中で何度も生まれ変わらなければならない。

それでも、正真正銘の「好き」に出会えるかどうか分からない。

はじめのうちは、お金持ちになって、あるいは、権力者になって、自分の思い通りに、あれも、これもやりつくしている状態になっているはずだ。

彼らは、想像の中で好きなことの限りを尽くす。それを、何度も繰り返すのだ。

あくまで想像ではあるが、何度も生まれ変わって、何度も好きなことをしているうちに、だいたいの感覚は分かる。本当に好きなもの、したいこととそうでない者の区別がつくようになる。

好きだと思っていたものでも、もし何度も生き返って同じことをせよと命令されたならば、「もうしたくない、こりごりだ」という陳腐な「好き」に何度も出会うことになるだろう。

想像をたくましくしながら、その経験のなかで、偽物の「好き」を一つ一つ落としていく。その経験を正真正銘の「好き」にたどり着くまで繰り返すのである。
 
「好き」の永劫回帰
 
ニーチェは、いみじくもこう言っている。

「君たちが何を欲するにしても、それが永遠に回帰することも欲するような仕方で、それを欲せよ」

同じことが何度も何度も永遠に巡ってくる、そのことを前提として、君たちは、いつでもそれが、好きなこととして、欲することができるか。できるような仕方を見つけて、そういう生き方をせよと、ニーチェはいっている。

僕は、ニーチェの「永遠回帰論」をこう解釈している。
 
正真正銘の「好き」は精神的な喜び
 
想像上の思考訓練をしているうちに、塾生は、何度繰り返しても飽きない、正真正銘の「好き」が、自分の芯から絞り出されてくるを経験するだろう。

正真正銘の「好き」は、決して物質なことではないだろう。物質的な「好き」は、遅かれ早かれ、飽きてしまうはずだ。

何度もして飽きないこと、それは精神的な喜びでしかない。しかも、人のために役立つような自分にとっての好きなこと。これしかないことに塾生は最終的に気づく。僕はそう確信しているが、みなさんはいかがだろうか。僕が間違っているだろうか。きれいごとにすぎないだろう。人間を甘く見ているのだろうか。

しかしながら、ここまで到達した時はじめて、自分の「好き」を謳歌できるのである。

ひとりひとりの「好き」がみんなに役立ち、いして、愚放塾は好きであふれかえり、活気に満ちて、それでいて、みんながみんなために役立って、共同生活が営まれて行く。

犠牲的な精神などこれぽっちもなくても、ボランタリー社会と同様に機能するのである。
 
参考資料:
「ミッションワーク」
「道徳と倫理は、似て非なるものである」
「愛の経験」
 
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